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政治

曾国藩 岡本隆司 書評

曾国藩をどう見るか、位人臣を極め悪評も高い、ネクラで小心翼々にして刻苦勉励、戦争に強いわけでも、経済に明るいわけでもない、中途半端で、実績のわりに評価が高い、曾国藩を追いかけるなかでそんなことを考えてみたいと思いました、著者は京都大学院博士課程単位取得、京都府立大学教授、近代アジア史専攻

生い立ち

1十九世紀ー長い18世紀の東西、その後の西洋の平和と世界制覇、清朝の繁栄の翳で人口爆発、顕在化する矛盾・白蓮教徒の乱、匪賊の国にて曾国藩生まれる

2湖南ー人口爆発と移民増加、遅れて開けた湖南、湖南人は命を懸けるしかない、

3曾家ー曾国藩は湘郷の人、父祖は曾玉屏で地主、曾子城は家塾から出て漣濱書院に入学、童試に続いて郷試に合格、嶽麓書院に入る、会試失敗、

北京

1赴任ー三度目で会試合格、殿試・朝考で進士、翰林院庶吉士として朝廷で研修勤務、「国藩」と改名、一度帰省後あいさつ回り、官僚としての人生、苦しい生活、学問は桐城派の古文と宋学、モンゴル旗人倭仁を倣って自身を鍛えなおす・日記

2栄進ー「大考」昇進試験に6位、四川の郷試主任試験官として成都出張、穆彰阿一派に属し内閣学士に昇進、礼部侍郎のポスト拝命、

3改元ー祖父曾玉屛逝去、皇太后さらに道光帝崩御、感豊帝即位、葬令で答申提出、軍隊の整理と財政整理案を上奏、太平天国に言及、行政制度の改革、刑事侍郎兼務「つぶさに民間の疾苦を陳べる疏」

湘軍

1太平天国ーアヘン戦争で湖南の商品流通激減、上帝会蜂起、江忠源押し戻す、太平軍湖南入り、長沙攻防で撤退、長江に出て南京占領、天京と改称、

2郷紳・団練ー郷士試験の主任試験官として江西省出張、途中母の訃報で帰省、匪賊一掃に着手、団練の規律をたて審案局を設け200人以上の刑死実行、農民で編成、湘軍全軍出征命令、守るべきは儒教で清朝ではない、

長江

1緒戦ー敗戦で自殺未遂、再起をかけ再編成、武昌・漢口・漢陽奪回、田家鎮の戦勝、

2苦境ー湖口で大敗自殺未遂、湘軍の孤立感、逆境にあって統制を崩さなかったのは、湘軍は曾国藩が縁故で組み上げた組織で信頼関係、財源も曾国藩が自らまかない、行き先々で資金の醸出を募る、

3回生ー太平天国首脳どうしの「天京事変」中枢部の欠落で反撃・九江攻撃、飛び込んできた父の死で帰郷、将来構想は湘軍をひきいて太平軍と戦うには総督・巡撫御の権限が欠かせない、戦線復帰は九江陥落後で目標は下流の安慶、派遣部隊全滅を受け再建

4転機ー陳玉成は安徽省桐城より西進、湘軍と交戦、清軍は天京包囲完成、李秀成は南方から・陳玉成は西から軍を返し包囲破壊作戦を成功、東征で江南デルタは太平軍に、清朝は両江総督処刑、後任に曾国藩、

5勝利ー戦闘は膠着、李秀成はイギリスに阻まれ上海断念、太平軍は西へ安徽省の湘軍と対峙、司令官は弟の曾国荃、包囲態勢完成させ安慶陥落、曾国藩は太平天国と全面対決、上海援軍要請を受け李鴻章に新軍編成を命じる「淮軍」、李鴻章は江南デルタ攻略、曽国荃は天京陥落、太平天国滅亡、

晩年

1督撫重権ー最悪の内戦、戦後処理で李秀成を訊問、共述書を書かせ処刑、幼主取り逃がしの失態を隠蔽、湘軍の解散、江南貢院・科挙の試験場の修復、土地の減税、「就地籌餉」の在地・拡充、「督撫重権」創始は曾国藩、活用した李鴻章、北京は「辛酉政変」で同冶帝、西太后体制、曾国藩の大権付与、

2苦闘ー捻軍の反乱で討伐命令、曾国藩の失態で李鴻章、淮軍率い残党一掃、目立つのは洋務事業で軍事工場、直隷総督拝命、教会襲撃事件「揚州教案」でイギリスに譲歩、

3終焉ーつぎに「天津教案」では普仏戦争でのフランス敗戦で破局は免れた、儒教と洋務が両立せず、両江総督刺殺で後任に曾国藩、直隷総督は李鴻章とした、洋務との円滑推進のため「北洋大臣」兼務、南京到着、あらためて取り組んだ「洋務」、執務中発作が襲い死去

柩を覆って

1顕彰ー朝廷は名誉職「太傅」と「文正」の諡号を追贈、文集の編纂、湘軍の人々は即位の待望をささやいていた・清朝の命運、本人の立場は「英雄」に値するが「創業」統一新しい政権のリーダーになれない、

2あとに続く人々ー①梁啓超は曾国藩に傾倒、著述を徹底して活用、②蒋介石は「曾文正公全集」を読みふけり、生活習慣を模倣した、顕彰事業と革命運動、安内壌外=「半植民地半封建」の曾国藩と范文瀾「漢奸劊子手曾国藩的一生」の曾国藩

まとめ

経済史や外交史の研究に取り組むと曾国藩とも疎遠、今になって書くことにしたのは大国化と言論統制を強める現代中国の帰趨にあります、「曾国藩全集」の読み直しは実に楽しい作業でした、生い立ち、北京、湘軍、長江、晩年、柩を覆ってで構成