JIN Demo Site 8
My Natural Garden & Cafe
原敬

清水唯一郎 原敬を読む

皆さん原敬てどんな人だと思います。本書は慶応義塾大学清水教授が原敬について描いたものです

明治維新後の新時代

賊軍藩・家老格の次男ー原は海軍兵学校不合格、フェリクス・エヴラール神父のもとに居、新潟を経て盛岡で平民。上京、司法省方学校入学、賄征伐で放校、仏学塾に通い「峡中新報」に投稿、郵便報知新聞社入社、明治14年の政変で大隈追放、払下げ取消、国会開設発布、動揺した原は、御用新聞「大東日報」へ移るが、幹部と対立し辞表提出

興隆期の官界中枢へ

外交官としての期待ー外務省御用掛・公信局勤務、太政官御用掛に異動をへて中国天津領事赴任と結婚、甲申政変の勃発で伊藤の外交技術を見る、パリ公使館異動、陸奥宗光との出会いー農商務省参事官から大臣秘書官異動、陸奥の支持のもと組織改革、米価安定、日清戦争後の外務官ー1895年下関で講和条約締結、原は次官、台湾は軍人統治、ロシアと山形・ロバノフ協定で朝鮮問題安定、原は駐朝鮮特命全権大使に異動、

政界再編、政治への参画

駐朝鮮公使辞任、大阪毎日新聞社編集総理、外報に力を入れ、社長に就任、新聞経営。立憲政友会への参加-憲政党の結成を受け伊藤は隈板内閣を誕生させたが組閣失敗と憲政党分裂で山形内閣、伊藤・西園寺・原で「立憲政友会」創設、大阪毎日退任、伊藤内閣成立、原は総務委員兼幹事長、星の汚職事件で逓信大臣、しかし日清戦後の積極政策を巡り閣議紛糾・伊藤の辞任、桂内閣成立・世代交代を図る、官僚政治家から政党政治家へー原は①執行部の立て直し②政務調査局の設置③地方遊説を打ち出す、そして総選挙・原は盛岡から出馬、当選、政友会は桂内閣と対決、再度の総選挙、伊藤は独断で政府と地租減税と海軍充実を決め、党内混乱、伊藤の辞任、

政権への」接近

日露戦争と世代交代ー政友会は西園寺公望総裁、松田正久と原敬を筆頭とする体制で再出発、議長選出で犬飼らの憲政党と妥協・失敗政友会と憲政党はロシアとの戦争で挙国一致・政府協力、原は総務委員辞職、しかし憲政党はまとまりつかず、西園寺・松田・原は政権交代を求め、原は政務調査会長となる。西園寺の首班は桂単独で行われた、内務大臣としての手腕ー敏腕の水野・人格の床次を従え原の内務行政開始、国民のための警察改革を行う・郡制廃止失敗、西園寺の天皇と公家を軸にする秩序と立憲政治を確立する原の立場は距離があり、西園寺は松田と原に辞意、準政党内閣へー原はアメリカ・ヨーロッパを回り清国・朝鮮も回った、政友会は原と松田を院内総務に据え、臨時政務調査会設置、桂から西園寺へ2度目の政権交代、原が内相、次官床次と地方長官水野に昇格させ、行財政改革に邁進、明治天皇崩御、西園寺は留任拒否、大命は桂に降下、桂・山形・原の幕開け、

大正デモクラシーの時代

大正政変の勃発ー桂は政友会が自律すれば自分は不要h、自ら政党立上げ決意・失敗、天皇の勅語で事態収束も失敗、議会は群衆に囲まれ騒然、総辞職。山本に大命、原の妥協は閣僚を政友会入党、山本は「軍部大臣現役武官制」を廃止「文官任用令」の改正を成立させた、山本は原を後継とし総辞職、政友会総裁就任ー少数与党の大隈内閣成立。原は「止むを得ず」総裁就任を承諾、戦争の熱狂から大隈は解散総選挙に踏み切る、結果は輿論政治を鼓吹し、欧州大戦に参戦減税と景気よく宣伝、与党は過半数確保、原は敗戦を受け、人事に辣腕を振るう、政務調査会に大きく手を入れた、選挙後の議会で、対華21カ条の交渉の方法と大浦内相の汚職で熱弁、爵位を辞退、大隈は寺内に対し加藤連立内閣を持ちかけたが拒否され、辞表提出、藩閥と国民のあいだでー寺内内閣成立、翌日憲政会誕生、倒閣工作、選挙統括内務次官に原系の水野を入れる、予算修正に準備時間を与えない、加藤外交の失敗と前内閣の失政が明らかになる、政府に対し原は①政府と政友会の候補者調整②憲政会の買収行為を取り締まることを申し出、総選挙は政友会163、憲政会121となった寺内は「臨時外交調査委員会」設置、積極的介入を転換できず、限界はシベリア出兵、原は出兵の時期は日本が決める、

近代日本の政党政治確立へ

平民宰相の誕生ー原は政友会の組織強化、政権授受を進める、シベリア出兵の決定は米騒動を全国化、寺内は辞意、山県も原を頼った、この後原と山県は共同経営者となる、組閣の大命、一任を取り付け西園寺に相談、原内閣は閣僚だけでなく、事務の統括者次官まで政友会員・政友会系を充て、一致した統治機構を作り上げた、統治機構ー物価の安定に商社による外米輸入、戦後経営は、戦時経済の利益を公債で集め、これを財源に国内外の公共事業に積極的に投資し、景気を支え経発展させる、教育基盤の整備は、大学令と高等学校令公布、私立と公立の大学認可、と高等教育機関の拡充、交通インフラ整備の中心は鉄道、港湾や道路を含めた体系的な交通網の整備、その他多方面の政策成立させた、インフルエンザに悩まされながら原の課題は衆議院議員選挙法、小選挙区を原則、納税要件を10円から3円とし成立させた、ヨーロッパでは欧州大戦が終結を迎えた、国内で陸海軍予算から増額分を削った、切り回したのが田中陸相、中国では南北和解勧告と中華民国への支援である、1919年パリ講和会議、原は西園寺と牧野、珍田で組織権益の確保と連合国と歩調合せる、「サイレントパートナー」揶揄される、国際連盟誕生、二局体制を亜細亜局、欧米局、条約局、通商局の四体制拡充、文官総督と民政への移行により外地に政治的安定を目指す、関東総督府を関東庁、朝鮮は内地延長主義を踏まえて文治政治を進める、台湾は田健治郎を総督に任命、貴族院に研究会でき山県系と対決・原は歓迎、「両院縦断政策」と称された、野党の「男子普通選挙法案」に対し原は解散して輿論に問うことを決めた、巨大与党への期待と不満ー総選挙の結果大勝利、戦後恐慌は始まっており、憲政会の浜口雄幸は財政金融政策の放任を糾弾した、永井龍太郎の「西にレーニン、東に原」は油を注ぐ、そうした時、パルチザンによる邦人襲撃を防げず田中陸相の辞表、責任内閣制へ移行が漸進した、原は男性納税者に市町村議会の選挙権付し、郡制廃止成立、内務官僚により借地借家法、住宅組合法、職業紹介所法が成立、ここで中橋文相の情報漏洩で不信任案提出、更に13の政府反対建議案提出された、突然の終焉ー大正天皇の体調悪化は原の気持ちを重くした、光明となったのが皇太子裕仁親王の訪欧だった、摂政就任手続き、アメリカ大統領選挙でウオーレン・ハーディング当選、国際会議での申し出あり、全権加藤友三郎、幣原喜重郎、徳川家達が就いた、そして運命の11月4日暗殺

まとめ

ロシアのウウクライナ侵攻は、政治嫌いといっていられない時代に生きていることを痛感させる、原はどうやってじんせいを切り開いたか、日露戦争の持つ立つ位置の大きな変化、社会は原をどう見たかについて「政治家・原」に迫ります

しんこうは