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片山慶隆 小村寿太郎を読む

皆さんは小村寿太郎てどんな人だと思います。本書は関西外国語大学片山教授が外交官小村寿太郎の生涯を描いたものです

維新の激動のなかで

日向国飫肥藩生まれ、祖母に育てられ、文部省の小倉処平により大学南校入学、文部省留学生としてハーバート大学留学

外務省入省

司法省入省・外務省に移動、第二次伊藤内閣で陸奥宗光外相に見出される

日清戦争勃発

公使館参事官として清国勤務、朝鮮豊島沖で日清戦争勃発、山形有朋の第一軍に従い朝鮮へ、ここで出征中の桂太郎に実力認められる。帰国後政務局長、講和交渉で通商の特権拡大主張、閔妃暗殺事件調査・解決、駐朝公司着任、露館播遷は朝鮮半島のロシアの力を増し日本の力を減退させた

ねずみ公司として

帰国後外務次官に着任、陸奥の死、駐米公司兼任、日米関係比較的安定時期で非社交的生活を送る、駐露公司就任、義和団事件勃発で駐清公司転任、北京議定書調印された

日英同盟と日露戦争

桂内閣成立、外相小村、対露抑止策として日英同盟、林・ランズダウン会議を経てロンドンで締結、ロシアとの関係改善めざしたが、満州撤兵せず、開戦決意

戦時外交と大陸進出

日本軍がソウル占領、日韓議定書と日露戦争の正当化着手、メディアと欧米広報活動、韓国支配は林駐朝公司が協定案作成・第一次日韓協定成立、保護国化を閣議決定。イギリスから第二次日英同盟の申し出あり、日本の修正案受け入れ成立、アメリカの韓国保護国承認は日本海海戦で、桂・タクト覚書成立。ロシアとの講和は、日本海海戦を受け、アメリカが調停、ポーツマスで開催、日露講和条約成立。韓国保護国化、満州の権益守るため、桂・ハリマン協定の破棄と清国にポーツマス条約を認めさせる北京条約成立した。桂内閣総辞職、西園寺内閣成立 

同盟国の外交官

外相を辞めた小村は枢密顧問、駐英大使に異動、消極的な日仏協定とは異なり日露協定に関心、林外相に打診、日露協定成立、イギリスで不人気であったが、首相再任される桂から外相就任依頼

米中の狭間で

帰国後、対外政策と満州の文章起草、日米交渉は高平駐米大使とルート国務長官、高平・ルート協定成立、この協定で日本の太平洋進出を恐れていたアメリカを安心させた。韓国併合閣議決定、ロシアとイギリスから同意を取り付け併合条約調印。間島問題と南満州鉄道平行線を抱えていた満州は、平行線は反対しない、間島は領事裁判で日清協約成立。アメリカのノックス提案「満州鉄道中立化案」は日・露・英・仏から反対、挫折したが、第二次日露協定の締結を生んだ。日英同盟は曲がり角を迎え条約改正難航、先に、アメリカと新日米通商航海条約調印、結果を受けて新日英通商航海条約締結と日英同盟調印(アメリカを同盟適用範囲外とする)、桂内閣総辞職、西園寺内閣成立、外相内田康哉。小村は辞任そして死去

まとめ

小村は日清戦争、日露戦争で大陸進出、朝鮮と満州確保、英米協調外交を基本としたが、日英同盟でアメリカを同盟適用範囲外としたことが後の日米戦争につながります