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築地ホテル

永宮和 築地ホテル館物語を読む

皆さん築地ホテルて聞いたことありますか。本書は永宮ライターが築地ホテルの物語を描いたものです

列強が要求した外国人ホテル

築地外国人居留地開設にあたって、イギリスのハリー・パークス公使が幕府に対し西洋式のホテルの要求、高圧的で2回目の会談で「建物を日本の責任で建てること」、勘定奉行・小栗忠順は、アメリカでホテルは宿泊施設であり社交の場・民間資金で建設と認識、小栗はこの頃横須賀製鉄所を計画、民間にまかせ株式会社制度を用いて資金調達行うこと

清水喜助という男

ホテルの用地は軍艦操練所の跡地、事業者募集で清水喜助が手を挙げる。清水喜助は清水屋二代目、横浜に店を開き、製鉄所・ドイツ公使館・外国人クラブの建設受注、初代は江戸で大工稼業・清水屋の創業、プリジェンスが基本設計・清水屋が実地設計、リチャード・ブリジェンスとの関係ー喜助にとって西洋建築技術の知識の吸収、ブリジェンスにとって工事現場の下請

どんな建物だったか

水準測量のエピソードー西洋技師が「潮の満ちるのを待って、いっぱい潮が満ちた時水を測って水盛した」と伝えられている。建築予算は3万両、敷地は7000坪、海側に日本庭園、2階建て、中央に小さな3・4階と物見台として塔屋を乗せた本館と、4棟の小規模な平屋建ての別館を建設。4つの別館は従者宿泊、本館裏の海側に日本庭園、茶室や東屋。このホテルの建物は擬洋風建築として区分、「木骨石造系擬洋風」、海鼠壁採用で、和洋折衷様式となった。客室は、本館1階37室、2階39室、別館合計26室、トイレ本館12か所、別館2か所、シャワー、ビリヤード、バーがあった。予算3万両が7万8000両に膨らんだ、時代は風雲急を告げて大政奉還、ブリジェンスの関心は鉄道駅舎に移り、新橋停車場駅舎と横浜停車場駅舎を手掛けた。喜助と平野弥十郎ー平野弥十郎日記に材木商の鹿島清兵衛と生糸商人の吉池泰助が出資と身元保証人となり、左官工事は森田屋藤助、土木工事は平野弥十郎担当、自転車操業だった

開拓者精神とホテルの評価

ホテルの工期は1年だった、開業後、ホテルの利用客があまりに少なく喜助は大きな負債を抱える、苦闘の記録は火災により消滅、開業10年前、長崎でコレラ発生、関西から江戸へコロナは運ばれ大流行した、ホテルは下水処置工事を施され後の建設事業に引き継がれる、外国人利用客の評判ーサミュエル・モスマン「ニュージャパン」欧米の最高級のホテルに匹敵、食事は質が高い、食事込み3ドル、料理長はルイ・べギュー、彼の叔父は上海のフランス租界でハウスコック、横浜に移りオテル・ド・コロニー開業、べギューはここで料理の腕をふるった評判が伝わり築地ホテルに推挙。外国人が利用できる西洋料理店は、築地ホテルと神田の三河屋、明治5年精養軒開業・初代料理長はカール、・ヘス、その後火災で消滅、築地精養軒ホテルとしたが関東大震災、今は上野精養軒が本店となっている、押し寄せた見物客、売れた錦絵ー「東都築地保互留館前庭の図」二代目歌川国輝、ホテルに発着した乗合馬車ー外国人の会社が運行していた、築地居留区と横浜居留区を結ぶ乗合兼郵便馬車、外人だけでなく日本人も利用した

発案者・小栗忠順の失脚と死

小栗忠順、奉行職を罷免さる、上州権田村へ移住、斬首される

築地外国居留地は開設したけれど

喜助は株式の引受低調、資金を集められなかっため商法司(会計官・後大蔵省の下部組織)へ借金請願、新政府は築地ホテルへ2万両貸付決定、居留地は、本来の外国人専用居留地であり外国公館・商社・教会が入る「競貸地区」、外国人を相手とする日本人経営の商店と外国人の借家「相対借地」、外国居留地に拠点を移したのは、アメリカ、イギリス、オランダ、第1回入札で52区画中20区画にとどまる。理由は築地は開港していないので通関業務は横浜が効率よい、江戸の海は大型船入れない、治安が悪い。開業時は話題をさらい、見物客も引きも切らさずだったが、宿泊客・レストラン利用者は予想をはるかに下回り、経営は悪化、普請屋が経験のない旅館経営をやること自体無理があった、商法司から業務引継いだ通商司は融資回収断念、新たな経営者を公募、払下げ決定、名乗り出たのが徳次郎と喜四郎、ほどなく白旗を挙げた。やむなく通商司は帝国海軍施設として利用決定

へこたれない喜助

このころ、清水屋は横浜の外国商館、外国人応接所の建築を請負、仕事ぶりを高く評価したのは三井の三野村利左衛門、銀行建築依頼、負債処理のため横浜吉田町の店宅と土地を売却、買ったのは三井、喜助は長女のムメに婿を迎えた、後の3代清水満之助である。喜助は三井組の建築で東京にいることが多くなり、満之助を横浜店長に据える

三野利左衛門との縁

新政府は三井八郎右衛門高福に対し「東京府御開市に付外国人貿易商社取締惣頭申付侯」の辞令、設立事務を依頼、先頭に立ったのが三野村利左衛門。彼は丁稚奉公から小栗忠順に仕え、結婚を機に脇両替商を営み、小判の改鋳交換で大きな利益を得る、この噂から三井家に迎い入れられ「通勤支配」に抜擢された。利左衛門は海運橋に移動「御為替方御用所」の看板用意、三井と清水で「海運橋三井ハウス」建設、擬洋風木造建築、コロニアル様式、貨幣制度の混乱から「新貨条例」決定、利左衛門は銀行設立と兌換券発行の願書提出、伊藤博文により取止。代わって三井組と小野組の共同出資、半官半民の体裁、「海運橋三井ハウス」を「第一国立銀行」に転用、日本橋駿河町に「為替バンク三井組」建設、清水喜助設計施工、2年後「三井銀行」と改名

時代の橋渡し役を全うして

清水は60年の長きにわたって渋沢の援助を受けている、渋沢は深川福住町の本宅改築を喜助に依頼、後別邸として使われ、芝三田網町に移転、明治21年本宅兜町、洋館、設計は辰野金吾、施工は清水組、銀座煉瓦街の最高責任者は由利公正東京府知事、銀座大火を受け銀座煉瓦街計画は一気に進んだ、デザインしたのはトーマス・ウオートルス、清水屋から清水店ー店員と呼ぶ職制採用、店員が経営業務担当、屋号を清水店と改める、喜助は日本橋本石町の店宅に移り隠居を模索、この店宅は純和風の蔵づくり建築、火災にあい上根岸の別邸に移住、そして息をひきとった

まとめ

築地ホテル物語はホテルよりも清水建設と三井財閥とのかかわりを感じさせます。西洋文明と小栗忠順とのかかわりも興味を持ちます