皆さん長谷川等伯は芸術生活を全うしたと思いませんか
、本書は出光美術館黒田部長が執筆しています
七尾時代
長谷川宗清の養子、門徒として日蓮宗関連の仏画を制作、信春の名前で、日蓮聖人座像、日蓮上人像、日蓮聖人像、釈迦‣多宝仏図、鬼子母神・十羅刹女図、三十番神図、信春初期の作品に十二天図、三十番神図、涅槃図
京都に上がる
京都の本法寺に入り、日堯上人像制作に大抜擢、陳希夷睡図、恵比寿大黒・花鳥図、武田信玄像、伝名和長年像、牧馬図、
等伯前期
等伯は利休を介し大徳寺の牧谿筆猿鶴図を見て、自らの芸術方針確信、動物を描きながら日本人が本質的に好む豊饒な情感表現を志した、山水図、竹林猿猴図、竹鶴図・松に鴉図・竹鶴左右・柳に白鷺松に鴉・柳に白鷺図、竹虎図、波龍図、
松林図を考える
①やまと絵伝統の松林のみを水墨画として描く②紙継のズレは下絵を屏風に表具③屏風を折って鑑賞④松だけで墨の表現はない⑤理想の絵画は静かなる絵、列仙図、瀟湘ハ景図、老松図、四季花鳥図、
智積院障壁画を考える
①祥雲寺は秀吉没後家康廃絶、建物は智積院に移る、心慰める草花、松に黄蜀葵図、楓図、檜図、②父等伯を支えた長男に久蔵「精密、清雅さは父に勝る」、桜図③久蔵急逝、「松林図」はこの時期作成、
等伯後期
秀吉死去、涅槃図制作し、「自雪舟五代長谷川藤原等伯61歳謹書」と名乗り宮中披露ご本法寺に奉納、妙法尼僧、千利休像、涅槃図、山水図、商山四甲皓、波濤図、四季柳図、萩芒図、柳橋水車図、
等伯晩期
66歳の等伯は法橋、その後法眼に叙せられた、江戸で死去、弁慶・昌俊図、日通上人像、烏鷺図、
まとめ
長谷川等伯、七尾期、長谷川号し、日蓮宗門徒として絵仏師として活躍、仏画に落款を入れる、京都時期、本法寺に入り、日堯上人像制作に大抜擢、等伯前期、利休を介し大徳寺の牧谿筆「観音猿鶴図」を見て、自らの芸術の方向確信、松林図は下絵を屏風に表具したもの、松の画題、墨一色は理想の絵画、智積院の障壁画は、鶴松三回忌に描かれた抒情的な草花で、制作途中で共同執筆者息子の久蔵を亡くす、等伯後期は、秀吉の死後、涅槃の図で「自雪舟五代長谷川藤原等伯61歳謹書」と名乗り、宮中披露、本法寺奉納、等伯晩期は、66歳で法橋に叙せられ、翌年法眼、最晩年家康に招かれ江戸に向かう途中死去、芸術家として良き人生を送ったと思う、