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チベット仏教

吉村均 チベット仏教入門を読む

皆さんチベット仏教てどう思います。本書は中村元東方研究所吉村研究員がチベット仏教について描いたものです

チベットの仏教の歴史

日本仏教とチベット仏教ー背景となっているのは仏教一般の考え、日本も同じ、活仏は生まれ変わり、チベットの仏教の歴史ーソンツェガンポ王は16条の憲法制定、仏教による国の統一、サムエ寺造営、この時期をニンマと呼ぶ、ランダルマ王の仏教弾圧のあと、インドからアティシャ招く、ダライラマは鎖国政策をとったが、結果として国を失ふ、チベットの諸派ーニンマ派は古訳派の総称、顕教の大半をこの時代に翻訳、サキャ派はクンチョク・ギェルポが始めた教え、カギュ派は翻訳官アルパがナローパに伝わる教えを持ち帰ったことに由来、ゲルグ派はダライ・ラマ政権で確立、アティシャの教えを伝えるカダム派は教団として失ったが教えは生きている、

仏教の要点

教えの言葉はヒントー実践の中心は心、師の指導・学び・理解・修行により心を変える、空を理解する、教えの言葉は悟りの境地、心の本質と利他ー「心の本質」をわかってない前行が重要、「心の本質」をわかって実践、必ず一切衆生の為廻向する、智慧と慈悲は鳥の両翼、

伝統仏教学のすすめ

「群盲像を撫でる」の喩、僧院教育において、俱舎・唯識・中観・如来蔵のそれぞれを学び相互関係を理解を目指す、ナーガールジュナーの仏教理解ー仏陀は自分の主張を持たない、瞑想中と瞑想していない時と、二つの心の状態を行き来し修行し、チベットの密教の実践も、智慧と福徳を積むことを同時に行うことで、利他の二つをそなえた真の菩薩の実践。如来蔵の教えー菩薩の実践において重要なのは、他の衆生の内に仏性を見ること、仏性が働くためにはそれを覆っている垢を取り除く必要がある。仏陀の境地は部派と同じ離繋果(岸の杭に縛り付けた網をほどくと、船が自然に岸から離れるように、因がなく果だけがある)となり、作られたもの・得られたものにならない。チベットの高僧が「衆生」を話題にする際、多くの場合輪廻する存在を思い浮かべている、現象と空性が別々のものでないと理解が得られたら、修行に籠って完成さすようにと助言、無思考の状態と空性の体験の違いを論じる際、中観が正統とされた。

菩提道次第と心の訓練法

仏教に教義はありません、実践は教えを学ぶことと修行すること、ガイドの役割を果たしているのがラムリム(菩提道次第)の教え、混乱期にインドの高僧アティシャのチベットへ赴任、仏教の教えを要約した「菩提道灯論」を踏まえている。アティシャ「菩提道灯論」とラムリムー釈尊の前世の物語・本生譚で、実践をまとめたのが大乗仏教の六波羅蜜。心の訓練に「入菩薩行論」が重んじられ、釈尊は自分の心を抑制、冷静に物事を考える人に、輪廻から解脱を勧める。菩提心は仏陀の境地を目指す心。「菩提道灯論」で修行者三分類、すべての生き物に仏陀目指す心が生じたら誓いをたてる「発菩提心」、止と観の瞑想、密教の実践、ロジョン(心の訓練)の伝統と現代ーゲシェ・ランリタンパ「はちげの心の訓練法」とゲシェチュカワ「七事の心の訓練法」がある、七事の心は「私はどこにあるか」を考える、六波羅蜜の実践の手掛かりは「入菩薩行論」(自他の平等・自他の交換)

仏教の実践

やさしい心を育てるー自分は幸運だと気付くのが仏教の出発点、苦しみの真の原因は無知。いかに幸せになるかー自分が愛情を受けたことを思い出し、一切衆生に向ける、帰依・四無量心。廻向ー仏陀の境地に至るまで帰依、四無量心は梵天の世生まれる、廻向すれば善行は決して失われない。仏性の教えは「未了義」、仏性のことを「如来蔵」ともいい、私の思いから完全に開放された仏陀の境地に至った時理解できるものです。「入菩薩行論」と心の訓練ー菩提心をおこし、六波羅蜜を段階的に行う、誓いをたてる、心の訓練を経て空性理解、瞑想、菩薩の実践

密教入門

グル・ヨーガーチベット密教の心髄ーグル・ヨーガは自分の師・グルを観想、四灌頂を授かり、最後に師が光となって自分に溶け込み師の智慧と一体になったと観想。密教修行の核心を実践できるのがグル・ヨーガです。「チベットの死者の書」と意識の深層構造ー意識が完全解体で「死のバルド」次に「法制のバルド」「再生のバルド」最後に性交を見て男女に生まれ変わる、ポワの瞑想と極楽往生ー隠居後に励むのがポワ(意識の転移)の行、ポピュラーなのが阿弥陀仏を本尊とし、阿弥陀仏の世界、極楽浄土に生まれることを目指します、

まとめ

チベット仏教と日本仏教、仏教は世界宗教だと実感できます。起源もほぼ同じ時期、江戸時代はダライラマ・僧侶による政権支配、現在中国共産党による弾圧が続いています。インドに亡命政府