皆さん富岡製糸場てどんな所だと思います、本書は上毛新聞社が富岡製糸場について執筆しています
技術立国の夜明け
明治期の日本は手動による座繰り製糸で、生産追い付かず粗悪品が輸出、フランスは政府に製糸工場の許可を求める、渋沢の提言で欧州技術導入の官営製糸場設立決定、渋沢を責任者、指導者ポール・ブリュナ。彼は農家を訪ね計画書提出、「ヨーロッパの汽機を用いて日本在来の製糸法を補強」戦略的内容で場所の選定品質管理や雇用に及ぶ、政府受入、全町民同意。製糸技術は尾高に完成させた在来技術改良「再繰式」を導入、工場配置はコの字型を構想、設計をバスチャン、現場担当は大工、明治5年操業開始、応募者18人、政府の募集通達で全国から女性集まる。これより前、前橋藩財政悪化を憂慮した深沢は速水に情報収集させ、速水を責任者、ミューラーを指導者として雇い「藩営前橋製糸所」立ち上げている。星野長太郎は伝習を受け「水沢製糸所」を開き、「座繰り」で勝負、これを機に士族中心で「精糸原社」誕生、萩原鐐太郎は安中市に「碓氷座繰精糸社」を発足。絹糸紡績は屑繭や屑糸から糸を紡ぐ技術、佐々木長敦は欧州紡績所視察で実現可能と報告、高崎市新町に建設、佐々木は所長、設計は山添喜三郎で「官営新町屑糸紡績所」開業。横浜商人に上州人2人ー中居屋重兵衛、上州生糸を国際ブランドに押し上げた、吉田幸兵衛も生糸商「吉村屋」開業している。生糸の道は高崎線開通まで利根川を中心に水路、田島弥平は中州の島村で生まれ、蚕の飼育法「清涼育」で「養蚕長者」。態勢立て直しのため田島武平は渋沢の仲介で「島村勧業会社」設立、検査を徹底蚕種価格暴落を受け、ミラノで市場開発、直輸出4回、やがて輸出途絶、繭の生産に切り替える。旧庄内藩士は弥平宅に寄宿、飼育法や養蚕家屋についても学ぶ、政府は「養蚕教諭規定」を設け粗悪品の対応や指導者育成にあたらせた。高山長五郎は「清温育」と呼ばれる養蚕法確立、在来種「又昔」を選び、繭の収穫安定と品質向上に寄与した、高山は高山組組織、伝習所として生徒を受け入れ、優秀者は授業員として各地派遣。富岡製糸場は利益を生み出せず、トミオカシルク酷評され、速水堅曹所長復帰で黒字転換、そして公売により三井が巨大工場を手に入れる、
花開いた技術融合
中上川は工業化路線に舵を切り、富岡製糸場を手に入れ、所長に津田興二就任、増産計画に乗り出し、生産量は民営化前の2倍、戦後不況から所長を藤原銀次郎に抜擢、出来高制を採用、藤原に代わり津田復帰、中上川の工業化路線に批判高まり工業部廃止、横浜の原合名会社に一括譲渡。富太郎は31歳で全権、三井家から一括購入、富岡製糸場は生え抜きの古郷時待を登用、現業長に大久保保佐一、蚕業改良部創設、養蚕農家に対する蚕種の無償配布と、養蚕組合の立ち上げ主導、日本の生糸生産2位。遺伝学者の外山亀太郎は、蚕種類の改良で一代交雑種が有利と発表、1910年外山が国立原蚕種製造所開設で指導を担う、蚕の一代交雑種は大正期全国に広まり、「新小石丸」は800メートルになった。大久保は農家と特約、蚕種生産者60名に外国種や一代交雑種の飼育と蚕種製造依頼、フランス式からイタリア式に更新終了、520釜を一か所に集約、煮繭と繰糸の分業を図る、自動繭乾燥機導入。組合製糸は器械化に直面、碓氷社の器械糸が座繰糸の値を上回り、結果、器械糸の割合は50%をうわまった、持寄制から受付制に変更。町田菊次郎は「甲種高山社蚕業学校」設立、3年で卒業、実習重視、別科女子部もあった、町田は9年後に「生繭共同販売組合」設立、富岡製糸場に原料販売、座繰糸製造農家は繭の生産に特化。木村九蔵は「競進社」を設立、蚕の飼育日数を短くする「一派温暖育」開発、技術普及と後進指導競進社模範蚕室設置、遺志を継いだ弟子たちが「競進社蚕業学校」設立、一代交雑種の登場で清温育は時代遅れ、高山社蚕業学校は閉校。庭屋千寿「氷穴」の温度測定、蚕種の冷蔵保存可能の報を受け父の清太郎「荒船風穴蚕種貯蔵所」操業開始、風穴利用の蚕種貯蔵は大正期には全国で200か所以上、春秋館が置かれ全国依頼に対応した、高山社蚕業学校の分教場も設置、しかし、電気冷蔵施設の登場で風穴は一気に衰退、荒船風穴も操業終えた。微粒子病が明治10年から流行、28%の蚕種が罹患、田島啓太郎はイタリア直販期に顕微鏡の使い方を学び7台持ち帰り、島村で顕微鏡検査、蚕種の病気予防に効果を上げた。田島弥平の家は、郵便制度の普及で通信販売島村でキリスト教が広まったのは、土地の名手である大規模蚕種製造農家の信仰が大きい、勤勉さを求めるキリスト教は蚕種の製造販売に励む島村の人々の精神性と合致。第一次大戦後の不況期、県は大久保と相談最新設備の大工場に農家が繭を出荷、製糸する直営工場制の組合製糸設立構想、翌年群馬社設立、大久保は富岡の手法で全国一位の組合製糸となった。115年の富岡製糸場を支えたのは女性労働者、彼女らにとって労働の場であり生活学びの場、賞与として反物がもらえたし、結婚の際たんすが送られたとあり、三井と原は「優良糸」の生産に重点を置いており、熟練工女の技術が必要だった。関東大震災、世界恐慌、日中戦争は原合名会社も出荷制限を受け、製糸業と貿易の事業体系を見直し、製糸から撤退、片倉の経営に移った。富岡製糸場は設備を最新鋭に更新、生糸検査室設置選繭場と副蚕糸処理場に続いて煮繭場を改造し、新式の煮繭機3台導入、コンクリート製煙突建設、大和式繭乾燥機を導入、絹を大衆化
世界を変えた技術革新
片倉は富岡製糸場を合併して、翌年には世界最大の製糸会社に上り詰めたが、太平洋戦争で対米輸出は途絶えた。そんな中、英照皇太后照憲皇太后の行啓70周年石碑完成、閑院宮載仁親王を迎え式典が盛大に開かれた。終戦で統制会社解散、工場は返却された、製糸器機を自社製造、合理化の一段階として「連帯繰糸」を福島の工場に取り入れ、3割経費削減で富岡など全工場で実施、森川一は自動繰糸機「K8A」を開発、生産性は30倍と向上。東京電気自動車の小林安は循環式のたま式自動繰糸機を完成、スピードと性能を上げ片倉工業と技術提携を結び、富岡はK8A型からたま式に切り替えられた、富士精密工業は農林省の共同研究・農林省の大木定雄は、たま10型にスリット式感知器をつけた「たま自動繰糸機スタンダードRM」を考案完成させた、富士精密工業はRMを進化させた「HR型」発表、無人化にあと一歩と迫り一人当たり80倍、生産の合理化を進めたいイタリアは、日本の自動繰糸機に注目、北部のネンブリ社に導入・稼働、しかし生糸価格の低下など受け、パラグアイに拠点として一貫生産工場を建設。合製糸は戦時下9か所に統合、終戦後群馬蚕糸製造(のちのグンサン)設立、年間600トンの生産量を記録した。1970年代、養蚕は勢いを失い、落ち込みが目立ってきた、繭の大量生産は、①稚蚕共同飼育で成育が揃った蚕が農家に配られ②条桑育は桑を枝ごと切ることでもたれされた、存続しているのは碓氷製糸農業協同組合と山形県の民間企業だけとなった。1987繰糸場は静かに眠りについた、ユネスコ諮問機関が「遺産群は19世紀末に養蚕と日本の生糸蚕業の革新に決定的な役割を果たし、日本が近代工業化世界に仲間入りするカギとなった」と勧告評価、
まとめ
歴史を動かした渋沢、工場建設は異議なし、ブリュナはフランス式に再繰式導入操業、幕藩製糸もミューラーを雇い稼働、座繰り製糸の結社、屑糸紡績所開業、島村で蚕種製造会社設立、高山長五郎が高山社設立し伝習所を設ける、速水は富岡の経営を改善して三井に移った、中上川彦次郎は、津田興二を就任させ・増産計画、中上川は藤原銀次郎を所長に抜擢、富岡は安定していたが名古屋・四日市は行き詰まり、廃止決定、原合名会社に一括譲渡、大久保佐一を所長、農家に蚕種無償配布と組合設立主導、外山の一代交雑種で高品質達成、蚕種生産者に一代交雑種と外国種の飼育と製造依頼、多条繰糸機導入、組合製糸は器械に転換、町田は甲種高山社蚕業学校と生繭共同販売組合を設立、木村九蔵は競進社設立、遺志を継いだ弟子たちで競進社蚕行学校設立、庭屋清太郎は荒船風穴蚕種貯蔵所操業、富岡と連携全国展開、田島啓太郎は顕微鏡で蚕の検査、世界恐慌から片倉に移った、
最新鋭の設備で絹を大衆化した、戦況悪化で国家が生産統制、終戦で片倉工業は製紙機械を自社製造、連帯繰糸を取り入れ経費削減、森川一は自動繰糸機・K8A型の開発成功、東京電気自動車の小林安は自動繰糸機の基礎となる・たま8型完成させた、片倉は技術提携を結び・K8A型からたま8型に切り替える、富士精密と農林省の共同開発で大木定雄は、たま10型にスリット式感知器をつけたたま自動繰糸機スタンダード・RM完成、富士精密に注目したネンブリ社はパラグアイに一貫製造工業を建てた、組合製糸は統合したが解散、島村も野菜農家に転換、最後に世界遺産、富岡製糸場、荒船風穴、高山社跡、田島弥平旧宅、