皆さん渡辺省亭てどんな人だとと思います。本書は古田あき子が渡辺省亭について描いたものです
牛込改代町ー丁稚奉公の時代
省亭12歳で質屋へ丁稚奉公、浅草の浅倉屋で木版画購入、菊池容斎に入門、自習自得、松本楓湖に出会う、
起立工商会社-工芸下絵描き時代
容斎塾破門、浅草寺近くで毎日絵描き、絵馬堂の作品を見る、省亭22歳で渡辺家を継ぐ、容斎から破門の許しを得、共作「心の草紙」、起立工商会社入社、輸出用陶器の下絵や図案描きの絵師、
絵画と工芸ー濤川惣助との協同
第一回内国勧業博覧会で、省亭は起立工商会社の出品工人として「金髹図案」を出品、花紋賞受賞、大倉孫兵衛の依頼により「省亭花鳥画図」刊行、濤川惣助との関りは、傘下の塚本甚助による省線七宝の扁額「墨絵の夜桜」で原画を担当、濤川と省亭の共作は日英博覧会まで続く、「月下飛鴨」と「海上月」の原画、代表作が赤坂離宮の花鳥の間と小宴の間の七宝、
パリの省亭―印象派の画家たちと
渡仏したのは39名、省亭の語学力はカタコト・サロンでの態度は堂々としていた、万博会場には、陶磁器や漆器、蒔絵が展示、池や茶室、売店は大工が設営、フランス語でガイドできるのは林忠正、万博出品「群鳩浴水盤の図」はデ・ニティスによって買い取られた、林忠正に随伴サロンに出向く、ドガに「鳥図」贈呈、
帰国後の家庭生活―妻さく
明治14年結婚、さくは新吉原の話、省亭の衣類、省亭の通う料理屋「金子」、長命寺での河東節の崔しを語る、省亭は息子水巴を新進俳句作家として売り出すため、「鳴雪句集」刊行の際、表紙を描き、内藤鳴雪を招き酒宴を開いた、さくは赤貧のなかにあって渡辺家を護った、
金竜山下画民ー明治10年代の活躍
帰国後、国内・海外の展示会に出品、第2回内国勧業博覧会で「雨後秋叢図」妙技3等賞、「雨中群鴉図」「官女」「猿」「草木」「安南柬埔寨河月夜真景」、アムステルダム万博で銀牌、イタリア公使マルチ―ノ依頼・神風楼の「左甚五郎京人形を刻むの図」模写、
鑑画会
フェノロサの理論に沿って日本画改革の実験場が鑑画会、省亭は明治17年に東洋絵画会の創立会員となって東洋絵画共進会へ出品していたが、その後鑑画会に移行している、結果として鑑画会の陣容が東京美術学校の指導層として移行、鑑画会は2回の大会、受賞者に破格の賞金、西洋画礼賛攻撃、第2回で省亭は2等賞「深山月夜ノ図」、省亭は東京美術学校の指導者になれなかったし、美術行政でも主要な役割を担うこともなかった、
挿絵画家として
明治前期の文芸は、小説と絵画は緊密、菊地容斎「前賢故実」刊行、省亭の挿絵は、坪内逍遥のシェイクスピア戯曲集、山田美妙の「胡蝶」、もっぱら雑誌の口絵と挿絵で生計、文芸雑誌が次々発刊され、省亭も筆を執るが、根岸党たちとの仕事は「美術世界」の編輯を任される伏線となる、「新種百種」「多情多恨」「百花園」に挿絵を描く、武田仰天子、村上浪六、宮崎三昧らの小説に口絵、なかでも武田仰天子の「蝦夷錦」は名品である、
坪内逍遥と省亭
シェイクスピアの翻訳刊行は、東洋館を開いた小野梓存在、挿絵を省亭に依頼、逍遥と省亭はその後も時折共同で仕事した
胡蝶の裸体問題
省亭の名が一挙に世に知られたのが、山田美妙「胡蝶」、美妙の反駁は裸体画は高尚なもので世の中を騒がせた観がある、「国民之友」は徳富蘇峰が発行、明治思想界に大きな役割を果たした雑誌、幸田露伴「風流仏」はより衝撃的、挿絵は友人、平福穂庵、裸体画が自然に受け入れるようになったのが大正期、山田美妙は情詩人連載を一方的に中断したことで、紅葉らを裏切り凋落、凸版主流前は、挿絵の原画が原寸大、塚原渋柿園「書学校」、挿絵は省亭
「美術世界」の時代
「美術世界」は渡辺省亭を編輯者として春陽堂から創刊、構想は、木版の文字による和装本を刊行にあり、宮崎三昧の推薦で抜擢、美術世界の巻頭序文のメンバーは根岸党の面々により構成、根岸党とは根岸辺りに住んでいた文人のサロン、通という合言葉がダンディズム、濃尾地震に慈善活動、森鴎外「美術世界題言」を寄せる、和田篤太郎はシカゴ万博に「美術世界」出品、鏑木清方は省亭の花鳥画には、薄群と濃紅との調色は省亭が好んで使ったもの、葛飾北斎の作品は「美術世界」で次々紹介、彫師・五島徳次郎、摺師・吉田市松、のちに摺師・田村鉄之助、小松角太郎加わり、巧緻な木版印刷が可能となった、「美術世界」が成功したのは、文化的良書が求められたからである、3年で終焉を迎えたのは、省亭の病、
西鳥越時代
西鳥越の家は借家、省亭37歳で7人家族、暮らしは奇麗好き、内風呂はあったが、銭湯利用、毎日の浅草の観音堂お参り、明治24年から27年に鏑木清方の師である水野年方が花鳥画について学んだ、暮らしが楽になるのが50代、食道楽・着道楽・芝居道楽が始まる、作品の頒布は三越や高島屋が仕切った、省亭は川合玉堂より高く川端玉章と同等の格付け、揮毫のコツもいっている、省亭に二人の妻、もう一人の妻、関根千代との二重生活、息子水巴に対し俳句で一家を成すよう物心両面で援助を惜しまなかった、
日本橋浜町時代
さく病没、日本橋浜町に転居、省亭と水巴の暮らしを支えたのが長女の露、山彦秀子に就いて河東節を習い、名取になった、西三筋町の家は、関根千代と二人の娘、連れ子が暮らしていた、ここで省亭は終生絵を描いた、歌舞伎や邦楽の会を楽しみ、贔屓は15代市村羽左衛門、大正7年死去
まとめ
省亭丁稚奉公、菊池容斎に入門、起立工商会社入社、ここで濤川惣助に出会う、パリ万博で渡仏、帰国後結婚、妻さくの思い出、国内、海外展覧会出品、挿絵画家になる、坪内逍遥との協同作業、山田美妙「胡蝶」の裸体問題、美術世界創刊、西鳥越での二重生活、日本橋浜町の暮らし、死亡まで描いてます、