皆さん、摂関政治て何だと思います。本書は立命館大学美川教授他共同執筆で摂関政治から院政へを描いています
藤原道長の登場
清和天皇が陽成に譲位した時、家父長的権力を振るわず、後見を専らにしたのは摂政基経。陽成天皇殺生事件を受け光孝天皇即位、光孝重病で宇多天皇即位、関白基経死去、醍醐に譲位。時平と菅原道真に補佐命じる、道真左遷、時平死去で忠平右大臣、宇多復権で上皇・天皇・藤原北家体制、摂関政治の基調となる。一条天皇の即位で兼家は外祖父にして摂政、死去を受け道隆関白。道隆死去道長右大臣、伊周・隆家失脚で天皇の母は姉で外戚だったが、立場は不安定、権力の制度的裏付けが重要視。宮廷運営機関蔵人所、道長左大臣就任で別当兼務、決済型政務が奏事に集約され、天皇に奉すれば完了する「定」があった。恒例除目・受領挙は原則議論されないが道長は異を唱えている、受領功過定で「無過」として合格すると位一階勧められる、諸国条事定は機能していた、刑事事件は罪名定と呼ばれ太政官と検非違使の2本立て。一条重病で三条天皇即位、道長と対立、三条は後一条に譲位、道長摂政就任、敦明の廃太子で、嫡子頼通の外戚担保、出家し法成寺造営、のちの頼通の平等院に継承、
藤原頼通から後三条天皇へ
平忠常は道長の死で朝廷に叛旗を翻した、戦線は泥沼化、講和で忠常帰降、軍事貴族たちは、自立して傭兵的存在。道長の荘園は根本所領四荘牧、頼通の荘園は平等院領以外,四条宮・高倉北政所・京極大殿に三分。「御堂流」という道長の子や孫を中心に、多くの上級貴族に寄進分散、頼通は天皇の外祖父になれず、天皇の皇子に恵まれず、摂関は道長の嫡流のみとなり、衰退に向かう。後冷泉天皇崩御、後三条天皇即位、国母が大きな発言力を持つ、摂関家が外戚でなくなることで天皇に任命権掌握、後三条天皇は荘園整理令、荘園の存廃判断が太政官・文書は記録荘園券契所、火災で焼亡した大極殿・内裏の再建の賦課方式が一国平均役となる、
白河院政の成立
後三条天皇崩御、白河天皇即位、白河天皇は堀川に譲位、摂政に関白師実、師実は関白を師通に譲る、太田楽の騒ぎ・師通急死。白河親政期は寺社強訴が本格化、山門の党派抗争、大山寺竃門宮事件、興福寺騒乱、忠実関白、堀川天皇崩御、鳥羽天皇即位、忠実摂政、延暦寺と園城寺の強訴は法王の命令で決着。奥州は河内源氏と大和源氏に棲み分け、摂津源氏と河内源氏の対立。後3年合戦は陸奥守義家の私戦とされ、陸奥守解任、義家と義綱の所領争いで義綱が美濃守・延暦寺強訴で退任。対馬守義親が乱逆、隠岐に配流、出雲に上陸し目代殺害、伊勢平氏正盛追討、河内源氏の内紛を受け為義が左衛門尉に任じられた。任寛が千住丸をそそなかし天皇暗殺落書により輔仁親王失脚、忠実は荘園集積、「執政所抄」成立、侍所機能強化、法王と忠実の対立で忠実は嫡子忠通に譲り、忠通関白就任、
都市京都の変貌と権門都市の成立
平安宮は、朱雀門を入ると正面が朝堂院、官人の職務、天皇親祭の中和院、律令政治の重要官司を配置、右京域の衰退。条坊制の道路は防火の役割、鴨川堤防築造、内裏の罹災は里内裏で政務が成り立つ、六条地区の再開発は加茂川の治水工事の進展。法勝寺の法会で重要なのは、大乗会、白河地区は都市開発、宗教活動。道長は木幡の地に浄妙寺三味を建立。四円寺の地域は天皇陵散在、円融天皇は、円融寺を建立。宇治の貴族別業は、平安遷都期、道長は別業を改造、頼通で寺院となり平等院、宇治は摂関家の権門都市ではないか。鳥羽殿は白河天皇の院御所として構想、鳥羽殿は朱雀大路の延長、京外に出た「作道」にある。白河上皇の遊興は院の政治的な行為となったが、京中の院御所こそが国政に関わる場所である。院政確立した白河法皇は鳥羽泉殿に墓地を定め三重塔を建立。鳥羽院政期、勝光明院は平等院模写、安楽寿院供養のあと、藤原家成造進の三重塔を墓所とする。白河・鳥羽院政期の家政を統括する院庁は、実質的に鳥羽殿を中心に運営されたと考えるべき。後白河院政では、白河地区の南に法住寺を営んだ、南殿の西側に平清盛が造進した蓮華王院完成、
貴族社会の在り方
恒例行事の内、元旦・白馬など節会は一上が責任者、上卿を現仁公卿に割り当てる「分配」がなされた。内裏焼亡、天皇宣旨「造内裏所」(特定の行事に関わる政務処理機関で行事所)が置かれ、別当や行事が任命された、これ以降行事所は不可欠な組織として定着していくが、巡役化の傾向。太政官事部局として、弁官局は小槻氏が実務を担当、12世紀半ばまで弁官局最上首である左大史の地位を独占世襲。蔵人所は恒常的に天皇に近侍し、奏上、伝言、護衛などを行う、天皇の家人で構成される、摂関家の政所は家政を扱う機関、職員の出仕を管理したのが侍所。院政の中心は太政官議政官を中心とする公卿会議、院庁は座位時の職員を中心に構成、院司は実務派官僚系と大国受領系に分かれる。位階とはランク・官職とはポスト・叙位・除目は、天皇御前に現仁公卿招集して実施、天皇と執事により決定、堀川死後、鳥羽が即位すると除目以前に院の許で事実上人事は決定していた。地方は、人身把握から田地把握に転換、受領が徴税するシステムに再編された。受領は国衙機構を整備、運営に携わったのが郎党と在庁官人、このため受領は在京、目代と在庁官人で実権掌握、政府の要請によって、徴収した物資を随時提供した。受領の任命は受領挙と受領巡仁方法あり、受領功過定で再任を待つ、摂関期以降大規模造営行われ、受領成功と観賞実施された、
京都と芸能
一般民衆による「風流田楽」は貴族・官人を包み込み、熱狂の渦に巻き込んだ。永長の大田楽において貴族たちが行ったのは白河院の意図による、摂関家の場合、宇治離宮祭、平清盛の祇園臨時祭。猿楽は藤原明衡「新猿楽記」、担った人は多様な都市民衆、見物人は貴族・官人で、院や貴族が猿楽と接する場は、神社の祭礼と寺院の法会。京都の郊外は貴族たちにとって遊興の空間、詩酒や管弦、郊外の蹴鞠、名人は下層身分、今様の担い手は地方の遊女や傀儡子
まとめ
藤原道長は関白就任したことはない、内覧にこだわり、二代の天皇の外祖父となる、頼通は娘に恵まれず、次の後三条天皇から摂政は外戚と関係なく家系から任命、院の近臣が役職兼務、国家機関をコントロール、平安京は、京外に拡大、白河と鳥羽殿と宇治を取り上げ、貴族社会の仕組みを論じている