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民家

原田多加司 古建築修復に生きるを読む

皆さん古い建物の修復てどうなってると思います。本書は原田多加司が古建築修復に生きるについて描いています

伝統技術という「方舟」

屋根はいかにして作られたか、雨露を凌ぐため、竪穴式で屋根の誕生、仏教伝来は寺院や宮殿の建築に大いなる原動力となった。森の贈り物、檜皮は立木から剥ぎ取り、区分精選を経て屋根材使用、杮葺は大割包丁で割り剝ぎ「ミカン割り」にして「木取り」を行う。江戸時代の師弟制は後継者や弟子への伝習制度の一つ、屋根職人の場合、10年で一人前、年季奉公が明けると、親方から道具一式半纏を祝儀として与えられる。近代は義務教育で徒弟制度の根幹が揺らぎ、中堅層が少ない歪な構造・昭和25年「文化財保護法」成立、望ましい保存と活用は現役で使われること、問題はリタイア、建物改造で郷土館などに転用か社会教育資料として生き延びること、

技術は乱世に成熟する

法隆寺は総檜造り、修復工事は21年を要した、伝法堂は大斗肘木の組物で身舎には二十虹梁を掛け、それが切妻の側面に表れている奈良時代の貴族住宅、聖霊院は聖徳太子と三経院は道場で平安期築、東室は柱の上に直接、桁を載せる初期の構造で、丸い垂木を用いる、妻室は東室に付属した小子房、従者や小者が住んだ。

神社の様式、「神明造」は伊勢神宮に代表、大棟側に入口のある平入で、両妻ともに棟持柱が立つ、「大社造」は出雲大社本殿や神魂神社本殿が代表、妻側に入口のある妻入りの建物、「流造」は神明造から発展、寺院建築の影響で照り屋根、前流れが長く伸びて向拝になった、「春日造」は切妻造妻入りで、左右に反りあがる照り屋根と社殿の前面の庇を特徴、「入母屋造」の屋根も多く、滋賀県の御上神社は最古、様式で多いのが流造、春日造、入母屋造と続く、寺院は奈良県、平安で近畿から東北、鎌倉で九州にまで分布、神社は近畿、中世における檜皮葺薄皮葺は京都を中心に蝸牛のごとく広まった、平安時代に座る生活、庇が下がり、化粧屋根と野屋根の二重構造、鎌倉期は、間の「懐」の隙間に「桔木」が組み込まれる、小屋組は頭貫という横架材でつながれた柱によって軸組と結合、柱の上部は柄がつくられ、大斗などが載って屋根全体を支える、木割は各部材の寸法を比例関係でとらえることで、有名なのが平内吉政・正信親子「匠明」、12世紀には垂木の割り付けから各部材のおさまり決める「枝割り」定着、斗栱の構成が整然となり、密な加工精度を見せるようになった、

語られなかった海外神社の時代

明治期の神社は官製の大型神社で台湾神社と樺太神社と日本人移住者による朝鮮の小さな神明造の社、大正期は朝鮮神宮、即位を契機に新京神社、奉天神社、開城神社、海州神社、昭和期は関東神宮、明治大正は、現地との宥和策、徐々に和風に変化、昭和期に統一が図られ、日本と現地の折衷、内務省神社局発足、神道の国教化、「社格制度」確立、造営担当の伊藤忠太は檜皮葺の流造を採用、軍部介入で神明造、満蒙開拓団第一陣「弥栄村」入植、開拓団の神社は神明造が多かった、

古建築修復の旅

海の神殿「出雲大社」川の神殿「熊野本宮大社」、山の神殿「大神神」と古い神社は自然と深いかかわりを持つ、一方では人為的に翻弄されている神社もある、伊勢神宮の建築様式は神明造、祖型は高床式倉庫、遷宮制度は宮廷内の神祭と密接な関係があり、技術伝承の知恵といえる、

桂離宮は皇室財産、前期の姿は「瓜畑のかろき茶屋」と呼ばれた御殿は池のほとりに建物あり、反対側に草庵、主殿が真ん中、後期は「桂離宮別荘図」御殿の配置もほぼ同様、明治と昭和に修理、雁行する御殿群はうまく構成され、屋根は杮葺のむくり屋根で統一、

現在の海外建造物の保存修復は、ネパールの仏教寺院「イ・ババ・バヒ」の保存修復、ブータンの「ゾン」と呼ばれる宗教施設と軍事施設を兼ねた建物修理、インドネシアのスラウエッシ島トラジャのトンコナンの修復、

文化財の森を育てる

国の森林業は危機的な状況に直面、林野庁から「国有林の檜の森からの檜皮採取を許可したい」と郎報を受け、森林官たちとで国有林の調査採取、採取簿等の林野庁や文化庁への提出ルールを検討している、東大千葉演習林は伐採、持ち帰って研究室で科学的研究がなされる、鎮守の森は集落のシンボル、社寺は檜皮の伐採を続け伽藍を維持した、

まとめ

屋根の生い立ち、檜皮葺と柿葺、徒弟制は何だった、法隆寺から古代技術の探求とその広がり、桔木の開発から中世の屋根革命、木割の誕生過程、大日本帝国の外地の神社建立、伊勢と桂離宮、東洋建築物、国有林・大学演習林・鎮守の森の感想