皆さん松本城は世界遺産登録に向け進行中です、本書は推進実行委員会により共同執筆しています
近世以前の松本城
信濃の国に府中、小笠原が信濃進出、飯田と松本拠点、正康統一分裂、甲斐の信玄が信濃侵攻、織田信長が武田を滅亡、小笠原貞慶回復、深志を松本と改め整備、家康の江戸異動により小笠原は古河移動、石川改易受け松本復帰、井川館は、飯田から府中・松本に進出し井川に館、守護権力安定せず、正康は歴代守護で最も安定、その後守護権力弱体化、井川館は、巨大な方形館、盛土造成、頭無川を巧みに取り入れ、土塁意を巡らす、政治の場主殿、宴の場会所、庭園、と常御殿や台所、守護クラスの生活用品、花瓶、天目茶碗など茶道具、香炉や碁石、庵や天満宮、林城は、平地の居館から山城に移転、「林館」と家臣屋敷、寺社、東に大城、西に小城を築く、大嵩崎に館の地名、礎石建築跡検出、内耳土鍋、瀬戸、美濃の陶器出土、林城は防御施設で、土塁で囲む、林城は信玄侵攻で、深志城を拠点、深志城は坂西が勤務、信玄は松本平に侵攻、林城・深志‣伊深城・桐原・中入城は自落、信玄は深志城を信濃の拠点、馬出に特徴、筑摩郡平定、埴科郡、葛尾城を落とし善光寺平、謙信と川中島の合戦、発掘調査の結果、①深志城と松本城で城郭形状が違う、②松本城築城期に人為的な土層がある、③松本城構築前に礎石建物確認、④松本城築城前に市場があった、小笠貞慶と松本城は、小笠原貞慶は信長の家臣となり、本能寺の変、後庁勘兵衛尉の活躍で深志城に復帰、平定⑤城の普請は石川が完成
近世の松本城
秀吉は天下を手中、信濃に石川配置、天守閣築造時期は①江戸時代は石川親子で完成、②名古屋高等工業の城戸久は天守着工は文禄3年、完成が4年③東大金井圓は文禄2年とし、城戸の文禄3年を切り捨てる、④宮上茂隆は天正19年から文禄元年築城、⑤公式見解は文禄2年着工、松平直政は松本入封と月見櫓の増築、歴代の城主は石川、小笠原、戸田、松平、堀田、水野、後戸田、松本城下町は、南北に長い形、中央の堀に囲まれた逆台形が城郭、「善光寺街道」が南北に通る、町人地の中心は南深志、本町・中町・東町がメイン、親町・枝町に通じる二十四小路、武家地は北部に延びる、元禄期松本城下絵図は、町人地が詳しい、享保13年秋改松本城下絵図は、黄色部分の武家地が詳しい、東筑摩郡南北深志町絵図は、赤いのが明治になって建てられた、建物と寺社、発掘調査から見る城下町松本は、本町菓子店「開運堂」から火災にあった上野産砥石出土、教育委員会は松本城下町全域を遺跡の」保護を始める、松本城の修理は許可制、戸田の天守の補修は10回、屋根と壁中心、記録が残る、火事は綿屋の大火、飴屋の大火、山城屋の大火、地震は、安政東海地震、台風は、慶応2年、石垣も許可制、幕末の松本藩は黒船来航、天狗党の乱、鳥羽伏見の戦いで、宇都宮で参戦、軍政の改革でオランダ式からフランス式へ変更、
松本城の魅力と価値
松本城は、総堀に囲まれた内側、本丸はきた、二の丸が凹字型、三の丸が全体包む、城地は台形、累は石垣にかわる、城内の建物は、天守は、大天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓」が国宝、本丸御殿は藩主の居住場所と政庁、黒門は正門、厩、多門櫓は兵器庫、折廻り櫓、裏門、太鼓門と太鼓楼は二の丸に入る正門、二の丸御殿は本丸御殿に次ぐ規模、二の丸土蔵は小規模、隅櫓4棟と南隅櫓は、物見櫓と倉庫、古山地御殿は石川の私邸、鷹部屋と鷹匠居所は、鷹匠の詰め所、新御殿は、鷹部屋の在った所、蔵、八千俵蔵、 焔硝蔵は火薬保管、お茶屋・お数寄屋・船着き場・お花畑は藩主の癒しの場、足駄塀は水堀にたてられた、若宮八幡宮は創建当時、大手門と四つの櫓門は城の出入り口、大手門は枡形、4か所は馬出形式、平櫓は、物資庫、藩校崇教館は、侍と師弟の学び場、辰巳御殿は、隠居用、三の丸北側は、武家屋敷,御作事、陽谷霊が並ぶ、複合扇状地の末端に松本城、二の丸が南から凹字型に本丸を包み、本丸と二の丸とは水堀で分断、三の丸は家臣団の屋敷、平城の為、三重お水堀と三重の累を回す、戦国期に天守、乾小天守、渡櫓、平時に辰巳附櫓と月見櫓、外観5重、内部6階、2階建てブロッグを3つ重ねた構造、屋根は入り母屋造り、千鳥破風と唐破風、野面積の石垣、軟弱地盤で土台支持柱埋め込む、不整形の平面に建てるため、1階の歪み補強母屋設ける、屋根は出桁を突出し、垂木を受ける、2階の屋根が3階を取り囲むため窓はない、1階は母屋と柱が多い、2階は「竪格子窓」と雨よけの「突上戸」、3階は木連格子と手斧削りの柱、4階はヒノキを多用と急な階段、5階は破風入込み間、6階は創建当初回廊の設計と26夜神の祠、乾小天守は、石垣は野面積、櫓は3重4階で、1・2階ブロッグに3・4階ブロッグを乗せた、丸太柱多用、辰巳附櫓の魅力は、石垣は野面積、西側は1・2階大天守とつながり、花頭窓2ヶ所、月見櫓の魅力は、石垣は野面積、ずべて欅、朱塗りの刎高欄を伴った廻縁、1階は観月用の空間、南側は1階が持ち出し土台の為せりだす
近現代の松本城
政府は陸軍省設置、松本城は存城、市川量造は城郭の博覧会場使用許可され、5回続く、士族の居留地は深志村桐耕地に移転、博覧会の開催は、展示物は東京、飯田、伊那や著名人の出品、小道具で、文明開化と産業発展が狙いだが、古器・旧物展示であった、博覧会は民官共同開催、西洋事情に共通の目的を見つけ常備の博覧会場「松本城天守閣」、附博物館は、①茶店5件、売店1件、②子供演劇、4件の興行、③軽業、山嵐観覧、舶来品観覧、演芸④演芸、貝・麦わら帽展示、本丸の利用は、博覧会と松本農事協会実験場、県の公園保存要求に対し協会は結果として解散、二の丸の利用は、松本裁判所と松本中学校校舎利用、三の丸は、堀の埋め立てとその土塁の利用で、神道事務分局、本願寺別院、郷などがある、天守からみた明治中期の松本の町は、南は松本中学校、開智学校、本通り、西は、長野県監獄署松本支所、北は松本神社社殿、東は、松本中学校の運動場、太鼓門石垣、足駄堀、南隅櫓、松本城の荒廃と保存は、明治の修理は、足掛け11年に及ぶ大修理、昭和の修理は、昭和25年国による第一号国宝天守解体修理、地質調査・丸太柱をt鉄筋コンクリート、筋交いボルト,ホルメット線使用、復元した箇所大天守で窓を撤去し壁、乾小天守は角柱を丸柱、壁か窓に換えた、渡櫓は、柱を丸太柱、窓を壁、辰巳附櫓は持ち出し土台と石垣の間の壁撤去、南に狭間、北に花頭窓、月見櫓は、内部を真壁、低い刎高欄、復元に至らなかった個所は、天守6階の外回りの半間通りと4重の旧軒の高さ、大天守には、古材と金輪継ぎで修理したものがある、明治修理で筋交いの痕跡あった、黒門の復元的整備は完了、史跡公園として①堀の清掃②石垣積み替え工事③二の丸公園整備④冠木門の改築④太鼓門の検討⑤堀復元、公園完了後は黒門枡形の二の門復元に取り組み完成、現在の松本城、東総堀水切り土手の史跡指定、松本城南外堀計画は、指定完了したが鉛検出にため「平面整備」にきりかえた、城の耐震工事まで時間要する、松本城のVRで再現、黒門から北裏御門、本丸御殿、天守から本丸・二の丸・三の丸二の丸は蔵群、太鼓門、二の丸御殿、古山地御殿、
世界文化遺産登録に向けて
条件はOUV,基準は①人間の創造的才能を表す②重大な影響を与えた価値観の交流③物証として無二の存在④重大な段階を物語る建築物⑤文化を特徴づける伝統的居住形態⑥OUVを有する出来事、松本市世界遺産登録に向け始動、資産名称は「近世城郭の天守群」、文化審議会、暫定リスト改定、国宝松本城を世界遺産に、実行委員会発足、講演会、見学会、松本城検定クイズ、松本城親子探検ツワー、地区普及啓発事業、松本・犬山・彦根は登録に向け研究会発足、「城郭群から天守群」、記念シンポジウムと海外専門家との意見交換、OUVの内容は「近世城郭の天守群」、天守は木造高層建築、統治と繁栄の象徴、徳川政権下で天守は簡略化、現存は5天守、戦乱と泰平の普遍的価値を有す
まとめ
小笠原が信濃進出、府中小笠原は井川、武田の信濃侵攻、武田滅亡で小笠原復帰、井川館は、巨大な方形館、小笠原の守護処、周囲に堀、生活用具出土、林城は平地から山城、本拠地は林館と家臣屋敷、東に大城、西に小城、深志城は坂西、信玄侵攻し深志城落城、信玄北信濃進出、川中島の合戦、深志城は、城郭プラン変更、①主軸のズレ②三の丸跡道路確認されず③堀跡の位置が違う④築城前の礎石、①②は主軸線が異なる、③は川の氾濫④は築城前礎石存在なし、武田統治前武家屋敷、小笠原貞慶回復、領国支配と松本改名、貞慶は、城下町の地替え、町民を南部、武家と町民を区分、
近世の松本は、天守築造は石川父子、戦前昭和は文禄3年説、戦後昭和は、文化庁が文禄3年、松平直政の入封、月見櫓増築、歴代城主は、石川、小笠原、戸田、松平、堀田、水野、戸田、城下町松本は、南北長方形、逆台形が城郭、町が北深志と南深志に分かれる、元禄期松本城下絵図、享保十三年秋改松本城絵図、東筑摩郡南北深志町絵図、松本城の修理は、戸田時代、修理は許可制、石垣修理と天守補修、松本城と災害は、火事は、綿屋、飴屋、山城屋、地震は、安政東海、幕末の松本藩は、黒船、天狗党の乱、宇都宮で参戦、軍制改革で兵制フランス式、松本城とは総堀りに囲まれた内側本丸は城地の北、二の丸が凹時型に囲み、三の丸が全体を包む、防衛主力は三重の堀と塁、5か所の出入り口、大手門、4か所は馬出、天守は大天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓、本丸御殿黒門、厩、多聞櫓、折廻り櫓、裏門、太鼓門と大鼓楼、二の丸御殿、二の丸土蔵、隅櫓4棟と南隅櫓、古山地御殿、鷹部屋と鷹匠居所、新御殿、蔵、 八千表蔵、御茶屋・お数寄屋・船着き場・お花畑、足駄塀、若宮八幡宮、大手門と4つの櫓門、平櫓、藩校崇教館辰巳御殿、三の丸北則、天守の構造と特色は、石川の天守、渡り櫓乾小天守、松平が月見櫓と辰巳附櫓、「連結複合式天守」、外観5重、内部6階、2階建てブロックを3つ積み上げ、天守石垣は、野面積、大天守は、不整形の平面に建てるため、母屋を設けた、天守の屋根を支える出桁構造、3階に窓がない、大天守の見どころは、1階の柱配置と部屋割り、2階は武者営所、ヒノキを多用した4階と朱塗りの羽根高覧急な階段、5階の破風入込み間、乾小天守と渡櫓は、石垣は野面積、櫓は12階ブロッグに34ブロッグ、丸太柱多用、花頭窓、渡櫓の入口は天守全体の大手口、渡櫓2階は乾小天と大天守を、ふとい松の敷梁が南北に通る、辰巳附櫓の構造は、櫓2層2階櫓、西側1階が大天守1階、2階が大天守2階とつながる、寺院風花頭窓、月見櫓の構造は、櫓は1層,地階付、目立つ朱塗りの刎ね高欄、月見のために空間、
壊される城郭、政府は松本を在城、市川量造が天守を博覧会場に、狙いは文明開化、官民共同開催、附博覧会5回、城地は、本丸は博覧会会場、松本農事協会実験場、二の丸は筑摩県の庁舎、松本裁判所、松本中学校校舎、三の丸は、堀埋め立てと本願寺別院、南に松本中学校と開智学校、本町、西に監獄署松本支所、北は松本神社、東は松本中学運動場、明治修理、昭和修理は元に戻す全国初①地質調査②鉄筋コンクリート使用、③筋交いボルト使用④屋根葺きにホルメット使用、復元に至らなかった物見台と4重の軒、戦後の史跡整備は、黒門枡形の石垣と内堀復元と黒門一ノ門復元、史跡公園として、黒門枡形二の門復元、二の丸御殿後の整備、東外堀埋め立て部の堀に復元、本丸北西隅の石垣修理、太鼓門復元、現在の松本城は、総堀の史跡指定、天守の耐震工事対策、
世界遺産登録に向け、対象資産がOUVを有する、資産名称は「近世城郭の天守群」、文化庁は、審議会で暫定リスト改定、実行委員会設立、普及活動、講演会、単独登録から近世城郭の天守群「天守群」がテーマに、OUVの内容は「近世城郭の天守群」、犬山、松本、彦根、姫路、松江