皆さん化粧に関心ありますか。本書は山村博美が化粧の日本史について描いたものです
化粧の黎明期
平安時代は、赤・白・黒の三色からなる伝統化粧、「黒の化粧」のお歯黒や眉、丹波康頼「医心方」に記載された「肌の白さ」で化粧は特権階級。紅化粧は流行に濃淡。平安後期に公家の男性に広まった化粧は、武士もまねる、将軍家の男子も室町期に元服前お歯黒をつけ、戦国期の島津家ではお歯黒は武士の日常の身だしなみ、江戸期は化粧をしなくなる。室町期、上流階級の「黒の化粧」は男女とも礼法に組み込まれ、武士においては、礼法整備され、婚礼の道具に白粉、眉墨、お歯黒道具に及ぶ、女性の能面は当時の化粧を写したもの、
伝統化粧の確立
江戸時代に化粧したのは女性、基本色は三色、お歯黒が通過儀礼と結びつく。「女重宝記」は生活百科事典、薄化粧が基本。江戸時代のおしゃれ読本「都風俗化粧伝」に化粧の目的は礼儀とある。具体的な内容は、鉛白粉は使い心地がよく、安いことから水銀白紛に替った、白粉化粧にこだわったのは、色白が美人の条件、スキンケアの処方収録と顔立ちの修整法「大きな目を細く見せる法」。江戸の買物ガイド「江戸買物独案内」には白粉紅問屋、紅屋、白粉屋、伽羅の油屋が記載、宣伝に一役買ったのが歌舞伎役者、江戸後期には化粧品店を経営。メディアを利用したのが式亭三馬の「江戸の水」(化粧水)、複数媒体用いた坂本屋の「美艶仙女香」(白粉)。紅花から抽出した化粧用紅花は紅猪口という陶器の茶碗の内側に塗って乾燥させ販売。「笹色紅」は緑色に見えるまで塗り重ねるものだが、奢侈禁止令で廃れた。既婚の印、歯黒の美意識は、むらなく黒く染めるのが良いとされ、眉化粧は礼法として確立された、
近代化が変える化粧
化粧は、お歯黒や眉そりが否定、若い女性の間で太眉が流行。昭和初期まで化粧品業界をリードしたのは、大阪拠点の中山太陽堂と東京本社の平尾賛平商店。横浜で堤石鹼製造所創業、化粧石鹸製造。スキンケアは「小町水」「にきびとり美顔水」。中村福助鉛中毒事件で無鉛白粉「御園白粉」発売。洋風化粧の集大成が美顔術、磯村春子「今の女」で遠藤波津子理容館の体験取材、「催眠状態の心地」餅「美顔術」は大評判となる。化粧品広告に人気芸妓加わる、
洋風化粧の広がりと戦争
スキンケアで代表的な「へチマコロン」、桃谷順天堂の「明色アストリンゼン」、中山太陽堂「クラブ美身クリーム」、白粉化粧に求められたものが簡便さ、平尾賛平商店「レートメリー」、モダンガール実践洋風メイクは、頬紅とリップスティック「オペラ口紅」、と「引眉毛」とアイシャドウ「資生堂アイリッドセイド」、太平洋戦争後半2年は化粧の空白期、
化粧がつむぐ夢とあこがれ
戦後の化粧品業界は、鐘紡が、カネボウ化粧品として参入、資生堂は、原節子をモデルにポスター制作復活アピール、山野愛子美容院では、その日の食べ物に困る時期に女性たち殺到したとある、真っ赤な口紅と「光る化粧」(白粉化粧)流行、カラー映画「カルメン故郷に帰る」公開で、主演高峰秀子のピンク色の顔から「ピンク化粧」の流行、マックスファクターは「ローマンピンク」キャンペーン、口紅ブームを巻き起こす、つぎに注目されたのがアイメイク、一般女性に広まり「外人顔」を模倣するメイク全盛期を迎える、資生堂は「太陽に愛されよう」キャッチフレーズにファンデーションのサマーキャンペーン、肌を焼くことが夏のトレンド、50年代、化粧品会社は、イメージソングとタイアップしたキャンペーンを展開、話題をさらった、「JJ」や「an an]は、これを後押しした、「ナチュラル志向」の台頭は環境問題から自然回帰となり、「ナチュラルメイク」が注目された「素肌に近い」、細かった眉は自然な太さに戻った、紫外線対策から「夏も焼かない肌」へ路線変更
まとめ
基本の三色から特権階級の白、化粧する公家男性、まねる武士、江戸時代化粧は女性、おしゃれ読本、買い物ガイド、紅花、お歯黒、消えゆくお歯黒とそり眉、近代化粧品産業の誕生、スキンケアと美顔術、モダンガール実践メイク、カネボウと資生堂、口紅、外人顔、肌を焼く、イメージソング・女性誌創刊、ナチュラル志向から素肌に近い、夏も焼かないに変わる