皆さん江戸の学習てどんなものだと思います。本書は京都大学辻本名誉教授が江戸の学びと思想家たちについて描いたものです
教育社会の成立と儒学の学び
江戸時代は「文字社会」、兵農分離で直接支配から「文書主義」に一変、民衆は手習塾で学ぶ、教科①書き読み②能書の技③職業知識④道徳規範、書流は「御家流」、元禄期は京、大坂、江戸で大量出版の時代、「徒然草」は講談で語られ出版、テキストは子供向けの往来物と学問のための漢籍があった、和刻本は日本で出版漢籍で、返り点や送り仮名を付すことから知的読書中間層ができる、儒者は門人を集め、学問塾を営む、江戸時代で学問=儒学,訓読法が常用され素読により全文暗誦、「講義」「会業」「独看」と進む、郷学は学問する民衆に支えられた、
明代朱子学と山崎闇斎
明代、朱子は注釈書を著し「四書集註」と総称、科挙のテキストとなり、永楽帝は解釈を取捨選択、勅選「四書大全」編纂、中国からの舶載書は訓読テキストに変換、作業は林羅山、文之玄昌、中江藤樹、山崎闇斎、伊藤仁斎、貝原益軒、異を唱えた山崎闇斎は「体認自得」主張し定本を定めた、日本における「朱子学の成立」、幕藩領主の政治確立に寄与、武士層へ浸透、師の「講釈」が絶対
伊藤仁斎と荻生徂徠
伊藤仁斎は儒学に目覚め、闇斎学を不定的媒介として再構築、同志会を開く、協同的関係、仁斎学は「人倫日用」、「論語」絶対化宣言、仁斎の知は同志との対面的学問交流の現場から発信、荻生徂徠は違和感①漢文の読書法②講釈から学問が始まった、読書法は、初級用テキストを訓読法で教える、その後、疑問は「字書」を調べ、白文で読む、徂徠学は「先王の道」、規範とする古文辞に習熟すること、徂徠の学習法は、古典漢文を読む、習熟することで自己のものになる、著作を積極的に出版
貝原益軒のメディア戦略
福岡藩の藩儒、藩命により7年の京都遊学、ここでの人的ネットワークが財産、庶民の生活に役立つ「民生日用」の書を平明な和文で著すことが任務(「事天地」の思想)とし、「術」は学ばなければ得られないと「術」の著作に努めた、「礼」とは作法のこと、「益軒十訓」の「養生訓」は長生き、「和俗童子」は子供の教育法が記される、「益軒本」は学ぶ意欲のある識字読者層とその子供たちを想定、実用書の出版は増加した、
石田梅岩と石門心学
梅岩は丁稚奉公人、独習は読書以上に耳学問、小栗了雲に出会う、開悟体験を確信した梅岩は、公開講釈を始める、文字による学問に抜きがたい不信感から声の復権は非識字民衆層に応えた、「都鄙問答」「斉家論」は門人らの問いに答えた記録、梅岩の講釈は工夫により門人も増えたが京大坂にとどまった、梅岩没後石門心学は手島堵庵が継承、心学講を開設、全国に拡大するにつれ、京都を中心に統制、支配従属の関係を作り出し、修行や教化の方法も革新、共同学習「会輔」と講釈の比重高まり、子供向けに「前訓」昼間開講、「心学道話」は直接体験させる語り、石門心学は全国的に教線拡大は18世紀、寛政改革は石門心学に近づき社会秩序からはみ出たものを教化した、
本居宣長と平田篤胤
宣長の京都遊学は「在京日記」、漢文から和文に切り替えが見える、儒学からの脱出、言語観は文字は手段、声こそ本体、宣長は「古事記」に向かう、注釈作業の末「古事記伝」全44巻完成、脱稿を期に「終業慶賀の歌会」を催したが、出版の実現をみないまま、死去、古事記の世界を再現したい思いがあった、宣長は書斎の人、文字のメディアを活用した、平田篤胤は宣長の「もののあわれ」は継承しない、支持者は地方の神官、名望家で、霊魂に関心があった篤胤の国学は「霊能真柱」「天ー地ー泉」を通じて死後の「霊の行方の安定」をはっきりさせ、死後の安心を説くこと、背景に「内憂外患」がある、語りの対象は各地の神官と門人で、講話は宣長の「古事記伝」篤胤の「霊能真柱」「古史成文」「古史徴開題記」、出版は門弟が担った、理由は地方名望家は篤胤の語りに飛びついたからである、政治運動に展開、尊王攘夷の一翼」を担う
まとめ
結論は型を持たなければならない、江戸の財産を受け継いでいれば太平洋戦争はなかったと思う、江戸の教育で漢文を読むことの大切さと困難・その克服方法、塾と門人、出版を描き、失ったものは大きかった。