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幣原喜重郎

熊本史雄 幣原喜重郎を読む

皆さんは幣原喜重郎てどんな人だと思います。本書は駒沢大学熊本教授が幣原喜重郎の実像に迫ったものです

生い立ち

大阪の豪農に生まれ、大阪中学校入学、中学校令で第三高等中学校となり浜口雄幸に会う、帝国大学入学、外交官・領事館試験合格、幣原は仁川在勤

秀才から能吏に

仁川で石井菊次郎に会う、ロンドン在勤、アントワープ在勤・領事館長、釜山領事館在勤・結婚、本省勤務・電算課長・外務顧問デ二ソンと散歩・小村寿太郎に仕える

外交次官までの道程

小村の課題は関税自主権回復、幣原は委員に任命され、リーダーシップを学ぶ、大使館参事官・米国大使館在勤、排日土地法成立、駐英参事官、駐オランダ公使・ドイツ開戦通知失敗・対華21か条要求に反対、外務次官に就任・ウイルソン米大統領登場

対英米協調路線の模索

パリの山東半島利権の苦い経験から亜細亜派誕生、幣原は欧米派とみなされた。幣原が省内の見解をまとめたのは、米国からの新四国借款団の提案に対し「概括除外」を前提、次善作「列挙主義」としたことと、関東都督府の改革で軍・民分離が図られたこと。駐米大使就任、首席全権のワシントン会議で山東半島は日中間の問題とし中国から補償を受け、日本は利権返還、9か国条約は日本の満蒙利権に抵触しない内容となりました

幣原外交の始動

加藤内閣成立、外相幣原。外務省は「国民外交」をもくろみ情報部設置、幣原は正直・正攻法の外交、対英米協調、満蒙権益保持により国益を追求。軍閥同士の第二次奉直戦争・内政不干渉で臨み、結果的に収まる。中国市場では日本の綿製品が売れたが、中国は関税自主権の回復を狙い、北京関税特別会議開催、日本は2.5%、英米は7.5%を主張、その後省内の対立、英米の2.5%再提案、段政権崩壊で休会となった。加藤首相没し、若槻内閣、南京事件の軟弱さと漢口事件の実力行使で外務省対応に非難殺到、田中内閣成立、野に下る。北伐再開、済南事件勃発、張作霖爆殺事件は外交の窓口をひとつとした

満州事変と第二次幣原外交

浜口内閣成立、外相幣原、幣原が取り組んだのがロンドン海軍軍縮条約、日中間の改善・省内人事に着手・佐分利死去と小幡問題で重光葵に大使館参事官を兼務させた。交渉は重光と王正廷「日華関税協定」調印、浜口死去、若槻内閣成立、外相幣原、満鉄平行線問題は妥協に至らず、満州事変。国際連盟理事会開催、決議案反対は日本だけ、結局幣原はリットン調査団を受け入れることはなっかった

帝国日本の崩壊

日本と連盟の関係悪化、満州国撤退勧告は反対日本だけ、連盟脱退、盧溝橋事件、三国同盟、日ソ中立条約、太平洋戦争、敗戦につながります

老政治家の再起

マッカーサーに気に入られたのが吉田茂、吉田が首相と推薦したのが幣原、内閣の使命はGHQの折衝を通じ占領政策をを遂行、民主国家として再生ための基盤整備。憲法問題委員会設置、天皇の人間宣言・戦力不支持は、幣原とマッカーサー会談で合意をみたと考えられます。新憲法は、吉田内閣で公布されました

まとめ

幣原は英米協調外交を開始したが、結局は満蒙問題で、英米・中国からつきつけられ、軍部の暴走で終焉を迎えました。憲法制定では、象徴天皇と9条は当初予期せぬことでしたがマッカーサーとの会談で合意