皆さんカルピス飲んでますか、本書は山川ライターが三島海雲について描いたものです
国家の運命とともに
自由民権運動期、三島は大阪箕面の貧しい教学寺に生まれた、父は事業頓挫で離れ離れ、母の銭湯開業で伊丹、伊丹高等小学校中退。西本願寺の文学寮入学、楚人冠と出会う「楚人冠全集17巻」、山口の開導教校で英語教師の後、仏教大学入学(文学寮改名東京移転)、梅原教授から北京行打診され大陸へ。
三島を迎い入れた中島は上海で中国語を学び薬局「楽善堂」の世話になり、義和団事件で教育の復興をめざし北京東文学社設立。大陸には日本を飛び出した青年の野望が渦巻いていたが、母の急病を知らせる電報で、生計をどう工面するかに追い込まれ、中島に相談、趙州中学堂に赴任。母の死、再び北京東文社に復帰、ここで土倉五郎に出会い「日華洋行」設立し行商始める。27歳で結婚、日露間の緊張で軍需品の需要高まり、目を付けたのが金モール、見事に当たる。開戦で西本願寺は僧侶たちを戦地に送る、軍馬買い付けの仕事が回ってくる、大陸浪人佐々木の甘言で三島ら8人でモンゴル高原へ。なんと馬がない、季節は冬、このような旅を通じてモンゴル民族の知識を蓄積していった
草原の国へ
目的は①三島のモンゴルの旅路を辿る②彼が食べたヘシクテン旗の乳製品を食べること。まず居庸関、古北口、頼りにしたのは桑原の「東蒙古紀行」、承徳で一泊、普寧寺参拝、赤峰市ハラチン旗到着。北部地方はかっては遊牧を営んでいたが、中華民国と同化、モンゴル料理店で通訳のゲゲリヤ、ガイドのニムハーと打合せ、ヘシクテン旗へ、行きつけのモンゴル料理店に案内してくれたエルデムトゥが、三島がパオ氏一族と過ごしたことは知っているかと聞かれ、調査したことを答えると、パオ氏の当主はジャンバルジャブで有力貴族、三島さんを乳製品と温泉があるヘシクテン旗に招待、と付け加えた。内モンゴルの名馬①オルドスの走る馬②シリンゴルの白い馬③ヘシクテン旗の蹄が高い馬、由来は元朝近衛兵の残党が遊牧化したこと。
ニムハーは「本物の遊牧民」スルドゥバータルを紹介してくれた、ジョウヒを勧められたが上品、砂糖と煎った粟を入れかき混ぜたものを飲む、うまい、「初恋の味」の原点。朝に絞ったばかりの牛乳ををタンクに入れ、パオの中に置いておくだけで翌日にはジョウヒができる、これをオタマで掬い布袋に入れ、ポタポタ落ちる水分を小鍋に溜め煮込むと分離、上澄みがシャルトス、沈殿物に粟を混ぜたのがチャンガストス、乳豆腐は布袋の水分を抜いたジョウヒを煮込む、木製の箱に詰め形を整えて完成。三島は遊牧の知識を羽田享と出会い、実地体験と学問知識の交流で吸収していた。草原の暮らしの変化は、結婚式に参列した時のスマホのフラッシュ、広い草原で生きていくには情報が必要で、井戸や電気で便利になったが、三島が旅した草原は、モンゴル人にとって憧憬の過去となった。
蒙古のためになる事業を調査のため赤嶺再訪、地元テレビ局の先導で羊牧場、飼育されるのはメリノ種、食用と繊維加工。①三島の牛輸出事業は、神戸港に着くまでに痩せ、高く売れず失敗。②大隈重信から緬羊事業勧められたオーハン旗でのメリノ種の飼育・改良事業は日本の殖産興業のための事業は許さないという清朝政府の排外政策で頓挫。旅の最後に、ジャンバルジャヴのひ孫ボインイブゲルと会い、三島が遊牧民に愛されたことを語った、妻倒れ、帰国を決意
戦争と初恋
モンゴルで大阪毎日新聞の記事「アメリカ人宣教師の健康は酸乳」を読む、遊牧民・ジャンバルジャヴの妻に乳製品づくりを教わる。帰国後、橋井孝三郎が資金準備、土倉の次男龍次郎がスポンサーで師、上京した三島は醍醐味合資会社設立。健康ブームと醍醐味を結びつけたのがイリア・メチュニコフ「不老長寿論」だが、供給できず生産中止。三島はラクトー株式会社を立上げ、乳酸菌入りキャラメルの製造販売に着手、脱脂乳の有効活用からカルピスが生まれる。流通を担ったのが国分商店、ラクトーからカルピスに社名変更、関東大震災でカルピス配布。この時期、次女と長女を亡くす。カルピスの売れ行きは順調で健康ブーム、岡田式静座法、ヤクルトが誕生、原動力は宣伝広告「初恋の味」。三島が味の素から経営権を取り戻し満州カルピス設立。
1945年5月本社工場焼け落ち、千代野死去のあと高橋琴と再婚。企業再建整備法によりカルピス社は全資産出資カルピス食品工業株式会社を立上げ。保川明は給仕担当として採用され、思い出は甘納豆・メカブを勧められた、笹の雪の豆腐を届けた、スイカを社員に配ること。加藤副社長の業績悪化のあと、国分の国分勘兵衛が社長に就任、三島は会長、スリム化を図り、1956年三島は社長に返り咲き、フルーツヨーグルトピルマン完成。伊藤哲為の思い出、東京オリンピックのソノシート頒布で決断の速さ。福田正彦の思い出は、冒険をしなさい、貯金はダメ。小山洋之助の思い出は、三島の仕事術・日本一主義、「ローヤルゼリーを研究せよ」と命令、広報担当時代「カルピス名作劇場」。三島の孫寺田篤の思い出、内には祖母(琴)、外に秘書の酒本氏の怖い女がいる、祖母と石井光次郎の奥さん・娘さんで喫茶店経営、働けない夫(三島)を支えた、長嶋茂雄がカルピス広報に起用され、信濃町の家に遊びに来た。1962年全財産投じ三島海雲記念財団設立、
最期の仕事
カルピス文化叢書を立ち上げ名著復刊、「仏教聖典」刊行、孫の吉田美奈子の思い出、祖父は俳優座の試験合格に対し、それはいい、ぜひやりなさい、やるからには一等になりなさい
まとめ
三島は貧乏寺に生まれ、仏教大学で大陸渡来、日本語教師から行商人、モンゴルと接触、カルピスの原点、山川轍はモンゴルに足跡をたどる、帰国後醍醐味合資会社設立、初恋の味、健康ブーム、焦土から再生、三島との思いで、記念財団設立、仏教聖典刊行が最後の仕事