皆さん蔦屋重三郎てどんな人だと思います。本書は中央大学鈴木教授が蔦屋重三郎の文化の創造現場に立ち向かったものです
吉原の本屋蔦屋重三郎
版元以前、蔦屋の商売は貸本主体の本屋、「一目千本」/「急劇花の名和」は遊女評判記、廓内流通を狙う、吉原細見の出版は主力商品となり、廓内の商家のほとんどを自の吉原細見の流通網として掌握。「青楼美人合姿鏡」贅沢な遊女の画像集刊行、「青楼奇事・エン花清談」を巡っては、吉原の奇事逸話をとりどり集めたもの。「雛形若菜初模様」は、磯田湖龍斎の大判錦絵連作で吉原の新規客開拓目的。朋誠堂喜三二ー「江戸しまん評判記」刊行、江戸名物評判記の一つ、「夫婦酒替奴中仲」正本が蔦重版富本正本の最古のもの。「大栄商売往来」と「耕作往来千秋楽」が蔦重版往来物、当時の教科書、黄表紙の出版は全部で十点、「伊達模様・見立蓬莱」の巻末広告に七点の黄表紙新版目録が記され蔦重自身にとって画期的なことで、これより黄表紙は喜三二一作品を柱として行う
天明期狂歌・戯作壇の形成と狂歌師蔦唐丸
天明三年は丸屋小兵衛の「店庫奥庫」購求は吉原の本屋から江戸の地元問屋へ転身となり、出版物は黄表紙8点、喜三二一は4点他と充実している。四方赤良と蔦重の親交は天明元年に始まる、赤良とその周辺の人間を取り組んで蔦屋の商売が、彼らの基盤として行われ始める。天明二年は赤良を一つの核として狂歌が大きくまとまる時期、赤良の「判取帳」は会への参加を呼び掛けるための摺物の記事である。蔦重の地元吉原でも狂歌の愛好者が生まれ、連ができ始める、天明五年「徳和歌後万載集」に狂歌あり、その詞書により宴には蔦重も顔を出していた、狂歌師名和「狂歌知足振」に「蔦のから丸」という狂名がみえる。戯作の世界に参入していくに際しこの大会は大きな役割を演じた、「狂歌師細見」は戯作である、蔦唐丸を楼主に見立て20名が列挙、蔦重の挙は天明期の江戸文芸の性格を決した、
戯作と蔦屋重三郎
戯作に共通しているのが匿名性、作品に接して感じるのが自己顕示の欲求、戯作と出版ー戯作という文芸は出版という過程を経て成立。洒落本は社会参加を意味し、実感するために他者の存在、出版が必要とされた、黄表紙ー黄表紙は演技する場として道化という役割を演ずるには絶好の様式であった。狂歌を媒体に狂歌師はじめ、様々な分野の人間が遊び戯れる場が出来上がった、喜三二一「亀山家妖」原稿の催促をする蔦屋重三郎と何とかごまかそうとする朋誠喜三二一とを描く、結託して、演技の場をお膳立てしたのが版元蔦重
蔦重の戯作出版とその流通
安永期から天明初年にかけて洒落本で、版元の素性を明らかにするものは少ない、このことは貸本という流通機構を専らとする書籍としての資格を洒落本は十分備えていることを示している、富田屋新兵衛は、戯作刊行に際し「新甲館」の名称を用いた本屋と推測される、本屋清吉も近しい人間の作に応じ開版の労をとったものと思われる、赤良等を中心に狂歌・戯作の愛好家が集い、新しい遊びに興じる、かれらの交遊の場として江戸狂歌は、会の機能を高め、けじめがなくなった。山東京伝「息子部屋」「江戸生艶気樺焼」が蔦重から出版、彼の人気は不動のものになった、蔦重の洒落本出版は京伝のものを中心に盛んにおこなわれたが、そしてこの年京伝作洒落本3点が咎めを受けた
狂歌界の動向と蔦屋重三郎
「狂歌若葉集」と「万載狂歌集」刊行これが人気に火をつけ江戸狂歌は爆発的流行、「万載狂歌集」の方が面白い、これ以後狂歌集は盛行したが、狂歌師が出版見込んで狂歌に遊んだためでもあった。狂歌が戯作化し、戯作壇との境目がなくなった、活躍したのが蔦屋重三郎、狂歌は赤良によってまとめられ「老莱子」出版、版元蔦重、蔦屋重三郎は狂歌選集刊行の意欲を持ち「故昆馬鹿集」刊行、狂歌人口のの増加が質の低下となり、「狂歌才蔵集」は難産となった。狂歌絵本と絵入り狂歌本は、喜多川歌麿や北尾重政らの絵師と摺刷の技術で一級の出版物とした、ここには絵があって狂歌は添え物。四方側の歳旦集は「狂歌新玉集」赤良ら熱が醒めたところ,天明七年の歳旦集は「千里同風」これが赤良らの関与した最後の歳旦狂歌集となる、
絵本と浮世絵
蔦重版の浮世絵は吉原の宣伝という性格を負っている、江戸市中の絵草紙とは一線を画す。蔦重は寛政に入って部門別の蔵版目録を出版書に付載、そのなかの一つが「耕書堂蔵板絵本目録」である。蔦重最初の出版物「一目千本」は北尾重政である、蔦重と重政との関わりはこの出版物から重政没年まで、北尾政演は重政の弟子、戯作の筆名は山東京伝、彼の手になる蔦重版絵本は「新美人合自筆鏡」「吾妻曲狂歌文庫」「古今狂歌文庫」の三点、歌麿は蔦重の「摺物工房」に欠かせない存在、歌麿の蔦重版絵本は「絵本江戸爵」が最初、「画本虫撰」は北尾政演果たした役割を今後担う、寛政三・四年を境に豪華絵本は見られなくなる、倹約・自粛の空気・沈滞期に蔦重の浮世絵出版は盛時を迎える
寛政の改革とその後
四方赤良は、寛政の改革で連座の危惧あり、離れた、赤良の退陣で蔦重版戯作の主要部分を支えた武士作家が、手を引き、人材不足の影。残った人間で作品を生み出したのが山東京伝で、協調独占したのが蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門。棄捐令は札差の経営に打撃を与え、江戸市中は倹約・自粛ムード。風俗矯正政策は地本・草紙を扱う出版の再編成を促し、京伝と蔦重は処分を受ける。武士絵本は蔦重版にもある「歴代武将通鑑」「絵本武将記録」、道徳教化は市場通笑「即席耳学問」「忠孝遊仕事」、心学は「道話聞書」「絵本二十四孝」。「割印帳」の「狂歌部領使」の記事に蔦重が書物問屋仲間に加入とあり、これまで蔦重は地本の製作・流通にあったが、改革は好学の風潮によって、書物商売に活況をもたらした。素人蔵版書を支配・売引めを行うことも書物問屋の重要な仕事、朽木昌綱著蔵版古銭書の江戸売引めは蔦屋重三郎が手掛けていた。名古屋書林との提携・それも風月堂孫助/永楽屋東四郎との関係は特記すべき。蔦重は「ゆきかひふり」刊行、狂歌界を通じて和学者の結びつきも強く、和学も魅力の領域だった、書物商売が地本商売と違うのは株で資産価値があること、蔦重の商売そのものが変化してきた、
まとめ
蔦屋重三郎は俗文化を演出、人を育て、出版、さらに錦絵・絵本も手掛けました。寛政の改革後は書物問屋に加入、経営も変えました