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菅江真澄

石井正己 旅する菅江真澄を読む

皆さん菅江真澄てどんな人だと思います、本書は東京学芸大学石井教授が執筆したものです

菅江真澄と平泉

教科書に載る奥の細道は漂泊の思想、真澄は三河の国に生まれ、角館でなくなり、2/3を旅。長野から秋田、青森、南下して岩手、宮城、北上して松前から秋田、一日40キロ、和歌を詠みながらの旅。男鹿半島に1年かけナマハゲを発見、居候のような旅である。「かすむ駒形」に常行堂のお祭を見る途中で田の鶴形を見て、鈴木常雄と落合い和歌の贈答、道より東に大桜を見て中尊寺に寄る、経堂・金色堂を見てやっと常行堂、「かすむ駒形続」夏草やの句碑を見て、高館、

菅江真澄の図絵の魅力と課題

真澄の生きた時代、東海道の文化の最先端で30歳まで暮らす、岡崎を中心に学問や人格形成。「百臼之図」100点のコレクション、「氷魚の村君」八郎潟の氷下漁業、「男鹿の島影」船で戸賀から加茂行く、「男鹿の寒風」ナマハゲ、「男鹿の秋風」椿集落、「軒の山吹」秋田の追分から小泉を見る、

菅江真澄と宮本常一

宮本は西日本、真澄は東北・北海道、戦後真澄研究を進めた内田武志、彼を支えた宮本と真澄の共同研究。内田武志・宮本常一「菅江真澄遊覧記」5冊と内田武志「菅江真澄随筆集」刊行、昭和46年から内田武志・宮本常一「菅江真澄全集」刊行、昭和55年内田、56年に宮本なくなる。宮本は下北半島を歩き「辺境を歩いた人」刊行、この中で真澄を採りあげ、飢饉は秋田は痛ましいものでなかったが津軽はひどい歎息。「私の日本地図3次も北半島」では田名部の祭り、正月行事、恐山、宮本はアイヌを日本人の仲間とみて、内田が宮本に送った書簡に「地方から奪っておいて、中央で処理する態度はダメ」と書いている、

菅江真澄が描いた盛岡

真澄は旅が人生、昭和初期郷土史ブームで深沢多市「秋田叢書」編纂。内田武志が血友病を抱え柳田国男の「菅江真澄」携えて鹿角疎開、研究を支えたのが渋沢敬三、柳田国男・渋沢敬三相次ぎ亡くなり宮本常一が支えた。真澄は鹿角の錦木塚を訪ね伝説を書き留める、大里では尾去沢銅山を見て、マタギの話を聞く、盛岡では初めて舟橋を見る、「けふのせば布」に金勢大明神、臼搗き歌、岩手山、あまどころは良い薬、イタコ

角館で考える菅江真澄

昭和3年角館史考会の百年祭の事業①「菅江真澄翁終焉の地」石碑②喜田貞吉講演会③小学校で真澄翁の資料展示④町民に文物出品公開呼びかけ。秋田考古会の百年祭は、柳田国男講演会で「秋田県と菅江真澄」その後の研究の道筋をつけた。真澄は角館で日記を書いているが、2回目は留まって地誌を纏める途中で亡くなる。地誌編纂前に鹿島祭を見る、真澄の肖像画は地誌調査で出原家を訪れた際、出原が画家に描かしたと内田は推定。「月の出羽路仙北郡」の小倉山で「みちのく小京都」は創られた、

菅江真澄と信州

本洗馬を6月に発ち、順調な旅ができず、それ故に東北を広く見る。善光寺の施餓鬼、浅間山の噴火、「いほの春秋」で釜井庵周辺の自然と人事、文学と民俗を描いた一級の作品。本洗馬文人の一人三溝正員の日記に、真澄に学んだ和歌の修行と旅立の模様。真澄の旅が滞在型から通過型にシフト、民俗行事を比較する視点は本洗馬で確立、

函館で読む菅江真澄

真澄は35歳から39歳まで蝦夷地で暮らす、西礒の太田山神社参拝で「ヰナヲ」鰊の豊漁を祈る、東礒で「ウスの潟」有珠山の鳥瞰図を描き函館に戻る。松前渡海は松前藩医吉田一元に真澄の和歌をしめし斡旋、藩主道広が滞留を許したことにある。「えみしのさへき」で和人の生活とアイヌ人の生活を描く、次の「ちしまのいそ」は福山城下の人々の和歌の贈答や歌会の模様、王朝文化が松前で自然と向き合い花開いた。「えぞのてぶり」東海岸内浦湾に沿って有珠山、砂原辺りでヒグマの恐怖や内浦湾を渡って魚を捕りに来たアイヌの話、身振り手振りの対話、砂原の和人集落、

平泉で読む菅江真澄

32歳から35歳まで仙台藩で暮らす、秀衡が千本の桜を束楚山に植え、中尊寺建立(史実は清衡)、金鶏山埋蔵の伝説を描き、平泉に来る、「雪の胆沢辺」秀衡六百回忌で追善法楽、真澄は「冬懐旧」を詠む、猿楽を3度舞って終了、

菅江真澄がみた北海道・東北の地名

真澄は日記に小さな地名をかいている、山田秀三「東北と北海道のアイヌ語地名考」は「内と別」その後に「佐比内」から「保呂内紀行」まで20項目、疑念を挟む余地がないのはベツとナイ。結局柳田国男はアイヌ語を外し、文化人類学に位置付ける。真澄は「えみしのさへき」の日記で初めてアイヌ語で和歌を詠む、太田はオタが訛って太田になった、オタはアイヌ語で砂という。不毛地・ウエンコタンは「ウエンコタン」に漢字をあて、ふりがな表記、ウエンコタンは良くない場所。「ひろめかり」で、久根別は「クンネベツ」が訛って久根別、クンネは暗いこと。へきりちはべケレべツ、べケレは清き水。「えぞのてぶり」蝦夷では罪の軽い者は鞭打ち額に入れ墨いれ放免、西海岸では地名の儀礼が残る、東は形骸化。

北東北の旅では、「ゆきのみちおくゆきのいわてじ」深浦から能代まで、北東北の地名が和人とアイヌの異文化接触で生まれ、それがアイヌ語に由来する地名として残った。「みかべのよろい」秋田・阿仁のマタギの故郷、ナイの地名発見者は真澄、マタギが使う言葉の中にアイヌ語に由来するものがあると指摘。「ふでのまにまに」日本書紀の斉明紀「斯理弊都の名ところ」で青森の「荒脚巻明神」の林を子供たちに「ここは斯理弊都の林なり」と言われた、斯理は崎、弊都は河のアイヌ語。「秋田の比内荘あり、火奈以を比内又樋打ちなど書きしもの見えたり」でヒナイはアイヌ語の訛ったもので、ヒル「良」ナヰは「沢」。図絵の中に地名の起源をアイヌ語で説明、「勝地臨豪雄勝郡」の秋田県南部の薄久内村で真澄はウスクナイは元アイヌ語、

まとめ

9回の講演議事録集、人生の50年を旅、三河から長野、秋田、青森、岩手、宮城、北海道、秋田で没、地誌を描き、和歌を詠む。平泉では、男鹿半島のナマハゲ、常行堂の祭り、再会で一首、秀衡に思いをはせ、中尊寺から毛越寺、句碑と高館。岡崎を中心に人格形成、図絵は、百臼、男鹿半島。真澄は滞在型で東北・北海道、宮本は通過型で西日本。真澄研究は内田と宮本で「菅江真澄遊覧記」と「菅江真澄全集」刊行、飢饉、下北半島のお祭り、恐山、仏ヶ浦、アイヌ、盛岡では、錦木塚の話、マタギ、初めて舟橋を見る、金勢大明神、臼搗き歌、岩木山。角館では「真澄翁百年祭」2回目の柳田国男の講演、真澄は地誌編纂途中亡くなる。途中で鹿島祭を見る真澄の肖像画は、出原家を訪れた際、画家に描かせた、真澄の本洗馬旅立ちで、三溝正員見送る、善光寺の施餓鬼絵、浅間山の噴火を見る、いほの春秋は釜井庵の周辺の自然と人事、旅のスタイルが本洗馬で確立。北海道は、西磯を大田山神社へ向かう、ヰナヲの図絵、東礒では有珠山の鳥瞰図を描き函館に戻る。福山城下の人々との歌会の模様、アイヌの生活。平泉では、千本桜、中尊寺、金鶏山、を描き平泉へ、秀衡6百回忌追善法楽で一首。真澄の地名研究で山田秀三は「アイヌ語地名考」で内と別があった、真澄はアイヌ語で和歌を詠み、地名に残るアイヌ語探る、深浦から能代まで北東北の地名は和人とアイヌの異文化接触で生まれ、マタギに残るアイヌ語、地名に残るアイヌ語探る