皆さん伊藤若冲てどんな人だと思います、本書は辻美術史研究家が伊藤若冲について執筆しています
生い立ち
若冲が生きた時代の雰囲気は江戸中期、幕府の硬直化と町人の文化盛んになる、個性的な表現が次々生まれ、豪農たちが好んだのが奇。文化の中心は京都、特に変わった若冲「芸術家」と自認、23歳で家督相続、大典顕常と出会い仏教に傾倒、絵画は狩野派に入門、土佐派にも学び明清絵画に向かう。この時期画家達に影響を与えたのが①隠元の黄檗宗で、仏教界に刺激を与え明の美術や生活文化を日本にもたらした②長崎に滞在し日本人に花鳥画法を教えた沈南蘋で江戸に広めたのが宋紫岩、上方に広めた鶴亭、宋紫岩「連珠雄鶏図」と若冲の「雪中雄鶏図」はそっくり。絵画の道は30代から「日出鳳凰図」、40歳の作品「旭日鳳凰図」で若冲スタイル完成、鶏は庭に飼って観察、虎は正伝寺の虎図を見て描く、「糸瓜群虫図」もこの頃、
動植綵絵制作
1755年家業引退から57年までの作品は、「虎図」や「旭日鳳凰図」のほか「月梅図」「月下白梅図」「雪中雄鶏図」「紫陽花双鶏図」「雪中遊禽図」。この頃動植綵絵構想は既に生まれ、世に残すため10年以上かけて30作シリーズ画を描く、「芍薬群蝶図」「雪中鴛鴦図」「秋塘群雀図」向日葵鶏図」「紫陽花双鶏図」「大鶏雌雄」。1765年「釈迦三尊像」3幅と動植綵絵24幅を相国寺に寄進、鶏をトレードマークに定め生涯を通じて描く、天与の色彩感覚は「南天雄鶏図」、裏彩色は「梅花小禽図」「群魚図」「老松白鳳図」、濃密な画風は「牡丹小禽図」、アミニズム「貝甲図」「池辺群虫図」
若冲画の世界
旭日鳳凰図の鳳凰モデルは相国寺の「百鳥図」、ぶち模様の「百犬図」、デザイン化された「群鶏図」と「芍薬群蝶図」、トランプのハート「旭日鳳凰図」と「老松白鳳図」、ユーモア感覚「群鶏図押絵貼屏風」、墜落「芦雁図」、表現の冒険「貝甲図」と「石灯籠図屏風」、水墨画の冒険ー鹿苑寺大書院襖絵、
画業の空白期と、新たな若冲像
拓版画の技法で描いた「乗興舟」「玄圃瑶華」「素絢帖」「花鳥画帖」。絵画のほか、錦高倉市場再開問題で役人相手に忍耐強く計画的に行動し目的を果たす。空白期の作品「白梅錦鶏図」「野菜涅槃図」「袁猴摘桃図」。石峰寺の石仏群で描いた釈迦の一代記、若冲が発明したモザイク画「白像群獣図」、マス目型は西陣織がヒント
激変した生活
天明の大火により若冲はすべて失う、生きるために絵を描く、晩年の大作が西福寺の襖絵「仙人掌群鶏図」。石峰寺を住処と定め亡くなるまで暮らす、石仏づくりと「米斗翁」と落款した水墨画を売っている。このころ若冲は意図的に弟子を作り、工房で制作、再び升目画の作品に取り組む、「樹花鳥獣図屏風」「鳥獣花木屏風」、老いてなお「蔬菜図屏風」と大胆奇抜な「像と鯨図屏風」
まとめ
若冲が生きた時代の空気、青物問屋から仏教、明清画に接近、動植綵絵は若冲花鳥画の真骨頂、色彩感覚、濃密な画面、現実を超える、デザイン、トランプ、ユーモア感覚、鹿苑寺大書院襖図、空白期のモノクロームの版画とモザイク画、天明の大火事ですべてなくし、西福寺襖絵、米一斗の画家、奇想天外なモザイク屏風、最後まで画家でした