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ガンディー

竹中千春 ガンディーを読む

皆さんガンディーてどんな人だと思います。本書は立教大学竹中教授がガンディーの生涯について描いたものです

海を渡った青年

ガンディーはアラビア海を望む白い街で生まれた。幼児婚の後サマルダース大学入学、イギリス留学、弁護士資格を取り帰国、ストレスから代筆業に、或る日南アフリカのクジャラート人から仕事依頼、南アフリカ・プレトリアへ向かう。仕事完了送別会で、インド人の権利の戦い参加要請、「ナタール・インド人会議派」設立、一旦帰国し再び南アフリカ

南アフリカの若き指導者

ボーア戦争で戦争協力、終結後帰国、南アフリカのインド人移民について決議案採択。電報受診でヨハネスブルグで弁護士事務所開設、「インディアンオピニオン」週刊新聞発行・フェニックス農場の建設、アジア人登録法案の発表を受け「サッティヤーグラフ運動」を創設。ロンドンで直談判後「ヒンド・スワラージ」執筆、トルストイ農場建設。調停失敗を受け「ニューキャッスルからヨハネスブルグ・歩いてトルストイ農場を目指す大行進」で政府が妨害、インド総督の政府批判を受け、政府は「インド人救済法案」公表しました

マハートマへの道

帰国後故郷でアーシュラム(道場)建設、チャンパーランの農民救済(農民の聞き取り調査で逮捕され・県長官調査許可、ティンカティア制度廃止法案成立)、ローラット法案では「サッティヤーグラハ・サバー」結成・ハルヌール(スト)実施したが失敗している。1921年にはいり、非協力運動、中でもカーディ運動(ガンディーの考案した白い布だけを巻くだけ)は全国的に広まった。農民たちにとってガンディーはマハースト・ラーマー王子の生まれ変わりと言われた

塩の行進

1928年から政治活動、インドの統治再考「サイモン委員会」をボイコット、ネルーを中心に一つのインドを作る「ネルー憲法」を採択、ラホールで「完全独立」可決。インド総督が会議派委員会四つの方針に対し円卓会議提案、11か条を要求。具体的な運動「塩の行進」発表、白いカーディをまとい、途中社会改革を行い、ダーンディー浜到着、ガンディーの逮捕・総督の釈放を受けた「ガンディ・アーウイン協定」は非難の嵐、円卓会議で効果なく、再逮捕された。イギリス政府は統治構想発表、ガンディーはダリット(不可触民)の処遇はインド社会を永久分断するとして反対、「プーナ協定」合意、イスラームとヒンドゥーの亀裂は深まり、ガンディーは会議派脱退、一人で「サッティヤーグラハ」を行うと宣言、若い人たちに委ねようとした

最後の祈り

第二次大戦インド、会議派は戦争非協力。チャンドラ・ボーズは日本軍と連携。ムスリムは英国に協力してイスラーム住民の自決「パキスタン決議」採択。ドイツ降伏後シムラーで政治会議、ガンディーと対決したのがムスリムのジンナー「二国論」、彼は「イスラーム教徒よ立ち上がれ」とハルヨール、ガンディーは和解と許しで「平和委員会」結成、ヨガの実行。1947年流血の分離独立、カシミール紛争が起こります

まとめ

ガンディーは弁護士の仕事から、南アフリカで運動家としてデビュー、インドの完全独立を目指しましたが、カースト制度・イスラームとの対立から流血の分離独立、カシミール紛争を引き起こしました。彼の言葉に、明日死ぬこのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ