皆さん公卿会議って何だと思います、本書は立命館大学美川教授が公卿会議を描いています
律令制の時代
公卿とは四位・五位に相当する官人、太政官は左大臣・右大臣その他官職と事務官僚で構成、太政官議政官会議が存在。政治決裁は公卿聴政、弁官申政と直接読み申す三省申政(引率型)・外記(式次第に責任持つ)同席、外記請印儀(押捺)終了後、南所申文義(食事と公卿への申文)と内裏左近衛陣座で陣の申文(外記政と南所の食事後行われれ、外記政に来なかった公卿も出席できる)、
摂関政治の時代
律令制に、別当に「殿上所充」任命、行事所という執行組織ができ、行事所上卿は、天皇・摂関と連絡とり「定」という会議を開き責任を持つ。公卿会議の重要なのが叙位・除目、天皇と執筆大臣により決定、これに准じる重要案件が評議された、受領功過定は陣左近の陣座で開かれた、決裁するのは天皇と摂政と関白。道長内覧就任、伊周・隆家との内紛結果、伊周と隆家配流、道長左大臣。彰子立后で定子と並ぶ、定子亡くなり、彰子出産・敦成、天皇病に倒れ譲位で敦成を立太子・三条天皇即位。道長の娘妍子と故済時の娘娍子立后で皇后娍子、三条天皇は娍子が生んだ敦明の立太子を条件に敦成親王に譲位・後一条天皇、道長は摂政。
除目は天皇の御前、清涼殿着席、執筆大臣候補者の名前記入、召名と呼ばれるリスト作成、天皇に奏上許可。受領功過定は、受領自身が提出する功過申文で、在任中の勤務評定を申請する文書における審査で、「無過」合格で位一階、会議はしばしば紛糾。陣定は内容と先例のないものが議題、改元、院号、外交、所領相論。刑事事件は太政官と検非違使の2本立て、太政官で陣定、検非違使庁は15名の出向官人で構成、別当は使庁政の翌朝内容と出席者の報告を受けた。制度的に摂関制度が確立しても、天皇の外戚という非制度的な関係を有さない場合、権力は弱体化する、
院政の始まり
後冷泉天皇死去、弟の尊仁・後三条天皇即位により、藤原氏の外戚が破られた、関白は頼通の弟教通。後三条天皇は東宮貞仁に譲位・白河天皇である、関白は頼通の嫡子師実、白河は皇子善仁に譲位・堀川天皇である。白河院政開始、院御所で公卿会議が開かれるようになるが、院の家政問題が主、堀川天皇の公卿会議は天皇の主導権を飛躍的に高めた。殿上定において、関白は会議に参加審議、天皇による参加者選定が行われる、師実は関白を嫡子師通に譲ったが、強引な政治で急死、嫡子忠実はやっと関白。堀川天皇死去、鳥羽天皇即位、忠実摂政、院の家政的問題から国家大事においても院御所議定が開催。白河法皇は忠実の内覧停止、鳥羽天皇から崇徳に譲位陣定の議題は限定され、国家大事は扱わない、鳥羽院政期の公卿会議は、院御所議定、殿下議定、陣定においても院が主導、
院近臣と武家の台頭
鳥羽院は崇徳の次に近衛を皇位につけ、近衛の死後後白河即位、鳥羽法皇死去で、崇徳が忠実・頼長方に走り武力衝突、結果、崇徳は排除されたが、後白河天皇は権威獲得できなかった。信西は保元の乱を取り仕切り、大内内裏と大内浦内裏の復興、記録所の設置、後白河は守仁に譲位・二条天皇、譲位は信西と美福門院の相談で決める、後白河の経済的基盤は脆弱で信西が力を持った。平治の乱で信・義朝が強引に信西一派を退けたが、清盛が信頼に名簿提出後白河と天皇脱出、戦いはあっけなかった。この時期後白河と天皇は特に人事に意思表示なく「持ち回り合議」と「在宅諮問」、
二条天皇は憲仁(高倉天皇)誕生を機に後白河上皇を排除、二条親政、内裏殿上定が盛んに開催、院御所議定はまったく開かれない、二条天皇は子の六条天皇に譲位のあと死去。憲仁の立太子で、後白河院政確立、清盛は六条天皇を捨て後白河院政派へ、藤原邦綱入れ知恵、摂政基房は中継ぎ、基通成人まで亡き基実の後家盛子(清盛の娘)が摂関家領管理、平家は王家に従属した近臣から脱却に成功。清盛内大臣で公卿会議や在宅諮問で諮問を受ける立場、翌年太政大臣で決定権者、持ち回り合議に参加、権力の中枢を担う、在宅諮問では使者が各人のもとを訪れるとき、主宰者の意思を示すこと可能となった。高階泰経院伝奏を務める、源頼朝は義経追討の目的で「廟堂粛清」、院伝奏高階泰常配流に伴い、新たに関東申次創設と議奏公卿制による朝廷政務を行うよう要求、宇佐和気使問題と摂関家領相続問題で九条兼実執政迷走、
鎌倉幕府の興亡と建武政権
頼朝上洛、後白河と和解、頼朝2度目の上洛、東大寺再建完成式典参列、丹後局を宿所に招き荘園新設を勧めた。建久七年の変で兼実関白罷免、基通関白復帰、後鳥羽天皇は為仁に譲位・土御門天皇,良経左大臣。兼実の執政に戻ると、在宅諮問で記録所設置・藤原定長執権就任。承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐に流され、代わって西園寺公経は執権北条義時幕府の支持を得る、公経の娘婿九条道家は摂政、仲恭天皇廃帝で後堀川天皇の摂政は近衛家実。後堀川は皇子秀仁に譲位・四条天皇、道家摂政で殿下評定、道家・頼経父子と北条氏の対立鮮明化。
後嵯峨天皇から後深草天皇、道家は弟の愛息実経を摂政とし関東申次が再編成。経時から執権を譲られた時頼は宮騒動を鎮圧、頼経の環京と隠居、道家以下の関東申次更迭通知、九条道家は京都西居を余儀なくされた。院評定制の設置、構成は実氏・定通・の上流貴族と為・定嗣の中流貴族に二分、議題で多いのが所領相聞、院伝奏が院に取り次ぐ過程で議題作成、実務的に検討され、院伝奏は交代制がとられ、議題作成・相論文書の検討・議事進行役・評定目録作成。
亀山院政では評定を徳政評定と雑訴評定に分け、雑訴評定では、訴人と論人を院文殿に召し出し意見を聴取・これが文殿庭中。亀山院政に不満の後深草上皇は皇子煕人の立太子に成功、皇統が大覚寺統と持明院統に分裂。伏見親政では天変地異を契機に徳政①雑訴議定として議定衆を三番による交代制②記録所に庭中を開き上卿・弁官・寄人を置き毎日交代、さらに越訴奉行設置、再審の意味に変化する。
後醍醐は幕府に握られた皇位継承権を回復すべく倒幕に踏み切った、鎌倉幕府滅亡、建武政権の代表的な雑訴決断所は、所有していると主張する土地が本人のものか、証拠文書の審議行う、公卿・法曹官僚・旧幕府の実務官僚で構成。足利尊氏政権離脱、光厳上皇奉じ入京、光明天皇践祚、後醍醐天皇吉野に移る、光厳院政で徳政評定、雑訴評定、文殿などの院周辺の制度が縮小された。観応の乱後光厳天皇即位、皇子緒仁親王に譲位‣後円融天皇即位、後光厳上皇死去、後円融天皇は皇子幹仁親王に譲位・後小松天皇、南朝の後亀山天皇退位で南北朝合一、
まとめ
公卿とは何か、律令制成立、太政官議政官会議、公家聴政と外記政・南所申文と陣申文、陣申文の成立、藤原道長・権力確立への道、叙位・除目と受領功過程、陣定と使政政、関白にならなかった道長、後三条天皇と御前定・殿上定、白河親政期、白河院政前期、内裏御前定と殿上定、白河院政の確立、大寺社騒乱・強訴と院御所議定制、国家大事の議題、白河院政末期、裁判機関としての陣定、鳥羽院政期、信西政権の登場、後白河院の譲位と平治の乱、持ち回り合議と在宅諮問、二条親政の成立、平清盛と後白河、在宅諮問制の展開、関東申次と議奏公卿制、宇佐和気使問題、摂関家領相続問題、後鳥羽院政期、九条道家と殿上評定、院評定制の成立、院評定制の構造と特質、雑訴沙汰と文殿庭中、後醍醐政権の登場と崩壊、公卿会議の終焉