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原爆ドーム 古川修文 書評

著者は、小学校の時原爆の映画を見、社会人になって平和記念公園を訪れ、原爆ドームを崩壊から救った佐藤重夫・日本民俗建築学会会長に出会い、これらのことを知ってもらいたい思いで取り組みました。日本民俗建築学会会員

建築観と戦後への決意ー佐藤重夫の進む道

佐藤は、東京帝大建築科入学、岸田教授に出会い、ブルーノタウトの講演で、桂離宮へ、渡辺仁建築工務所で培った経験から、逓信省建設課勤務、原爆投下で広島出張、役に立てないむなしさ、松山での岸田教授との語らいで復興の決意、

平和記念式典と平和記念公園の成り立ち

害一回平和祭1947年、第二回平和祭にノーモア広島、第三回で「恒久平和の念願と人類文化の向上」、1952年新しい形での式典・慰霊祭、新しい都市計画と丹下健三とのかかわり、ここから広島平和記念公園建設で丹下案採用、着工から完成、

原爆ドームの運命

広島県物産陳列館・設計ヤン・レッツで開館、ドイツ商品展示でユーハイム・聖戦美術傑作展が最後、原爆投下、原爆ドームとして平和の象徴へ、存廃論議、原爆の子の像建立、保存運動のきっかけ「広島折鶴の会」、広島市長から都市計画にあたった佐藤に保存の相談、

ドームの調査と広島市の決断

佐藤はドーム調査で、エジプトのアブシンベル神殿の合成樹脂接着剤に関心、調査体制・工程決まる、未知への挑戦ーエボキシ樹脂系接着剤、広島市は募金方式で工事費調達、

原爆ドームの回生

保存工事の意義は、長く存続しうるよう、危険性に考慮する、「原爆ドーム保存工事技術委員会」発足、起工式、足場設営、施工順序は四つの工区、平易から困難へと進めた、工事は順調に進み、建築担当者の最終点検、広島市による完工式、佐藤は映像による記録、

保存工事の検証

エボキシ樹脂工法の確立とエボキシ樹脂品質管理試験が規定、1987年保存工事後の検診

平和記念公園に捧ぐー佐藤重夫私記

広島平和記念公園の性格は慰霊碑を中心とした境内、点検の実施、平和公園とその他の文化施設を合理的に結ぶ、風土を生かし人文の向上を期し、平和公園を取り扱う、佐藤重夫は「原爆ドームの管理に対する総合審議特別永久委員会」の夢を見ながら91歳で亡くなった

まとめ

建築家・佐藤重夫の民俗建築への道、平和記念式典と平和記念公園の成り立ち、原爆ドームの運命、ドーム調査と広島市の決断、原爆ドームの回生、保存工事の検証と佐藤重夫の平和記念公園へ捧ぐから成り、建築保存の使命観が伝わってきます