皆さんは、ハンナアーレントをご存じですか。
本書は、フェリス女学院大学矢野教授がハンナアーレントのライフヒストリー・思考について述べたものです。①哲学と詩の日々②亡命時代③ニューヨーク難民時代④1950年代⑤世界への義務⑥思考と政治の6部構成となっています。
①ハンナは、進歩的で、教養のある両親のもとで育ちました。父が早く亡くなり、母と暮らし、哲学を学ぶことを決意、マールベルグ大に入学、ハイデッガーの講義を受講、その後ハイデルベルク大学に転学、ヤスパースに出会う。もう一つの出会いは、ブルーメンフェルトの出会い、ナチ前夜にシュテルンと結婚、パリに亡命
②ハンナは、ユダヤ青年に職を与える「農業と手工業」の組織で秘書、後「青年アリヤー」の事務局長、難民援助。パリの亡命者に、二番目の夫となる、ブリュヒアーと出会い、生涯の大切な相手となります。こうした友人たちが集まったベンヤミンのアパルトマンは様々なことが語られました。ドイツのポーランド侵攻は、ハンナは、ギュルス収容所に収容されたが、脱走、アメリカへ
③アメリカに亡命したハンナは、アメリカ人家庭で、家事をしながら、英語習得。「アウフバウ」紙は、亡命者の情報源となり、エッセイストになります。「アウシェビッツ」情報に接し、「全体主義の起源」を執筆。ドイツ敗戦
④この時期、ハンナは、「民主主義をイデオロギーとして反対、批判」、ヨーロッパ再訪、ヤスパース・ハイデッガーと再会。アメリカ国籍取得、ハンナは「ユダヤ文化の再興」責任者となり、大学の講義が増え、カリフォルニア大学バークレー校の客員教授となります。「人間の条件」「革命について」「過去と未来の間」は、それらの研究から生まれました。
⑤アメリカ南部の「リトルロック事件」は、州民の大半が反対する状況で政府が介入すべきではない、と主張したハンナは、敬遠されました。また、「人間の条件」を仕上げたハンナの関心は、「アイヒマン裁判」でしたが、アイヒマンの責任を軽くし、抵抗運動の価値を貶め、ユダヤ人を共犯者に仕立てると断言されました。
⑥個々の論争からハンナは、独裁化における個人の責任、道徳や思考と悪をめぐる問題、心理と政治についての考察を考えつづけました。
まとめ
ハンナは、アウグスティヌスの「はじまりが為さんがため、人間は創られた」という言葉を引用「はじまりとは、一人ひとりの人間だ」と書いています。