JIN Demo Site 8
My Natural Garden & Cafe
首里城

沖縄タイムス 首里城を読む

皆さん琉球処分、沖縄戦、火災後の首里城はどうして象徴となったかと思います、本書は沖縄タイムス首里城取材班が共同執筆したものです

御城かいわい

国頭村辺戸「お水取り」再開、琉球王朝期、御嶽から首里に運ばれ元日長寿を願う若水とされ、明治期から中城御殿に届けられ沖縄戦まで続いた、「琉球国王家年中行事正月式之内」に新年を祝う「朝拝御規式」で国王が唐衣装で拝むとあり、往時の営みが蘇る、御座楽演奏、国王の即位を認める冊封使をもてなした組踊を今も演じるが火災で中止、古式行列に①琉球王朝祭首里②琉球王朝絵巻、魂を込めたイベントが必要、なるみ堂の翁長良明はコレクター、仲原広哲は、展示だけでは物足りない、諸見油則は「琉球漆器」保持者、正殿の漆も下地も剥がし漆塗り、城間栄一は17年から琉球王国の衣装に携わり「紅型を残す」目標、泡盛は琉球王府の外国の使者をもてなす重要な品、沖縄戦破壊後再開で庶民の酒、平斗星は渋滞対策に駐車場を移築して城下町を歩いてもらうと話す、中城御殿の復元は、首里城再建と併せ実現、城が沖縄の歴史を繋ぐ、

戦いをくぐって

大龍柱を壊した陸軍、上官から叱られ元へ、沖縄戦で再破壊後、石膏原型を作り復元した、与那嶺貞は、城の建物を使った首里区立女子工芸学校で生活、読谷山花織に伝統をつなぎ「人間国宝」、鹿児島新聞の首里城取り壊し記事に、鎌倉芳太郎は待ったをかけ、伊藤忠太が国に掛け合い中止命令、沖縄神社は国が創建、参拝者を見かけず、忠魂碑はなんども訪れた、米軍の爆撃で師範学校職員生徒は鉄血勤王隊、犠牲者は226名、「留魂壕」の存在、沖縄戦直後スパイとされた住民虐殺、沖縄戦中枢の首里城地下の「第32軍司令部豪保存公開を求める会」発足、戦後スージグヮー(路地)が残ったから、首里の町は生き返った、首里市立郷古博物館で文化財ひろい、「王冠は行方知れず」、琉球大学では「首里城正殿にやんばるの材木調達を使ってほしい」の声に研究データを国に出す、規格家は復興住宅で、米軍提供の2×4、守礼門は仲座久雄と森政三で復元、「首里城復元期成会」発足、民間主導で、国の調査費がつき正殿完成、尚家文庫は、琉球大学の高良倉吉と当主尚裕の面談から、復興に寄与させることで那覇市に寄贈された、

地方からの遠望

与那国島は人頭税で苦しめられ、生活は台湾だったが、国は外国の貿易船が入るのを許可しない、島に自生クバの葉で道具を作る、北山は中山に滅ぼされたが、今帰仁グスクを拠点に陶磁器の数々がある、南風原町は王府の直轄地、「津嘉山イラナー小」は士族を追い払った話、「御拝領旗」を掲げ音楽や踊りを添える、王家の祭祀にしか使わない漆器「御供飯」を伝える、古謡「おもろ」に、勝連の繁栄がうたわれ阿麻和利の汚名をすすぎ、地域の目標となる人物とした現代版組踊を考えたのが故江江安吉、首里城改修の際、国頭地方の材木が献納され、村から村へ搬入の歌が国頭サバクイ、与那原に瓦工場が増えたのが明治期、首里城の「奉神門」の補修は受注、多良間村史によると、朝敏は農民から慕われたが、政策批判で処刑本村は王府役人で、農民に寄り添った朝敏は正しかったと胸を張る琉球王国は、正殿改修に久米島に「久米赤土」を求めた、染料は大地染め」に生きる、

1年後の一歩

火災から1年、「琉球王朝祭首里」、50年後の首里の町」を展望で70人集まり、すいまち研設立、国王の別荘・御茶屋御殿は風光明媚で、文化の殿堂、だが復元計画はない、第32軍司令部豪は、平和学習の場として整備構想、県立芸術大学で琉球漆芸を教える當間准教授は、学生に琉球漆器の技術を伝え、波多野学長は保存特化は難しいが基礎的な実技教育と他者が作った物に敬意をはらう心を育てる、大龍柱は国採用の相対向きと本来の正面で主張が分かれている、見学しながら復興がみえるがよいが、ガイドを置き、何を選び、どう展示、収めるかが問われる、

まとめ

お水取り、新春の宴、御座楽、組踊、秋に琉球王朝祭首里、琉球応答絵巻、コレクター、文化財救出、正殿の漆塗り、紅型工房、泡盛、駐車場、中城御殿の復元、再建の在り方、負の遺産として、天長節、明け渡し、正殿の女子工芸学校、取壊し中止、沖縄神社拝殿,留魂壕、地下の城、住民の帰還、焦土の文化財ひろい、琉球大学、戦後の守礼門、首里城復元期成会、尚家文庫、沖縄周辺に遺産として、与那国、北山、南風原町津嘉山、うるまし勝連、国頭、与那原、多良間、久米島、、未来に向かって伝えるもの、首里城祭、まちづくり、御茶屋御殿復元期成会、第32軍司令部豪、技術の伝承、大龍柱の向き、復興機運、地域全体で人、建物、文化、戦争を含めて象徴として首里城を展示進行してほしい