皆さん法隆寺いかれた事ありますか、本書は天野正樹が法隆寺を科学するを執筆しています
法隆寺謎の痕跡30
金堂の主屋に礎石が据えられる、柱座を上面に作り出したもの5個、焼失して一部を欠きとったもの4個。裳階の礎石にも再加工して上面を平らにした痕跡ある、金堂の壁の下地に転用した木材見つかる。釈迦三尊像を安置する台座に古い墨書の扉枠再使用、本尊釈迦三尊の天蓋年輪は、金堂より64年古い。五重塔の檜心柱の年輪は594年、600年ごろ伐採,670年火災焼失より70年早い、塔の礎石に火災にあった痕跡あり、四天柱は丹土が塗られていたが、須弥山が造られた為,塗装と装飾が隠された、天井格縁落書684年のハレー彗星「肺出」、初層の側柱に風蝕が残る。大講堂の解体時に裏返して据えた柱座付礎石がある、外側に整然と並ぶ別の礎石跡、土間に規則正しく掘られた壺堀穴、蔓絡み穴が整列する垂木、巨大な梁と大斗はどこからきたか。中門の礎石20個のうち15個に火傷跡ある、不整形で高さが違う伽藍、東大門は昔の南大門か北大門か。単弁瓦と複弁瓦が混在、伽藍の北と南に掘立柱の柵、東室に柱付礎石を裏返して据えた不思議、胴張り柱のガイコツ、円弧反りの虹梁、不規則な広い狭いがある柱間、釘を使わない、飛鳥時代の小屋組。若草伽藍では、伽藍焼跡に礎石がない、焼けた木材もない大伽藍焼跡、伽藍が全焼したのに飛鳥の仏像仏具荘厳具は現存?5重の心礎石は一寸小さい、土盛りした版築基礎は沈下しないか、
歴史絵のジグソーパズル
古代斑鳩は、周辺に斑鳩宮、法隆寺、中宮寺、法輪寺、法起寺あり、富雄川が流れ、船で朝鮮、唐へ渡れる。仏教伝来、聖徳太子死去、大化の改新、都も難波京から平安京へ度々遷都、天候不順で飢餓や旱魃、地震続発。法隆寺建立当時、庶民は竪穴式、仏教建築は礎石を据え、柱を連立、軒を持ち出した反り屋根、大材は修羅という運搬具、土はモッコを棒担ぎ、版築工法で基壇の周囲に礎石を据える、木材切断は、横引き鋸やチョウナ、表面仕上げはヤリガンナ屋根の垂木は、二本の垂木を頭部で交叉、木栓を穴に挿して組み、棟木の上へ乗せかけた、垂水木の穴に蔓をとうして屋根の野地材を結わえた。類焼を防ぐには平屋3m、2階建ては5m離して建てる、木材の「燃え代理論」では、燃えるのは、屋根と軒と天井、柱と桁梁は燃え尽きない。斑鳩の里は伏流水の関心欠如で版築基礎の足元を崩す、古代水平を測るには長さ3mの板に溝を穿って水を満たし2点の高さを測る、寺院には伏流水対策と給排水設備が必要。落雷は一瞬で、発火した火を消せば終り、落雷記録は怪しい。年輪年代法では、667年から669年で火災後伐採、心柱は無事だった、玉虫厨子はひな形、法隆寺資材帳に全焼記録ないのは、仏像、美術工芸品は修復で無事だったから、大講堂も再築中で記載なし、創建伽藍は若草から西院に移建された、
移建論の幡
移建は経済的負担が少なく、工期短縮、塔の心柱も四天柱の痕跡も古い材を再使用、礎石は再用、塔の内陣は彩色絵を隠し須弥山と塑像が新しく作られた、堂塔が移建されたのは伏流水に原因、移建論であれば謎の痕跡は説明つく、創建法隆寺は、金堂と五重塔が南北に並ぶ四天王寺と同じ配置、多分五重塔に落雷、心柱を伝わり初重内部で燃え、火焔は上層へ広がり、中門に移る、金堂と塔の移建が完成は落書きから1年後、壁画、須弥山、塑像制作、仏像と仏具荘厳具を納める、若草伽藍を捨てたのは伏流水、西北に移転、西院伽藍、法隆寺は南北で高低差あり、横幅利用した配置に変更、高麗尺から唐尺へ変更、
法隆学問寺に聳えた大講堂
大講堂は①615~700は法隆学問寺創建大講堂②700~745は西院大講堂、若草から移建③資材帳に記されない大講堂④745~925大講堂機能失い仮講堂⑤990~2016正暦元年建立大講堂、落雷火災を受けない創建大講堂は、内部から施錠、傷んで雨漏りする金堂や五重塔、の仏具、荘厳具を仮安置、
まとめ
前半は法隆寺謎の痕跡30に疑問、後半解説のスタイル、斑鳩の里は寺院が点在、政情不安、天候不順、寺院の基礎は版築、火災は五重塔から金堂、木材は燃え尽きない、伏流水が版築基礎を崩す、落雷で全焼はない、火災後伐採で心柱無事、玉虫厨子は模型、若草伽藍は全焼せず、伽藍の材を再利用し伏流水のない西院移建、創建法隆寺の四天王寺型から金堂と塔が横に並ぶ、大講堂は創建大講堂期、若草から西院に移建期、落雷のため仮講堂期をへて、現代の大講堂新造期に引き継がれている、