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荒木田岳 村の日本近代史を読む

皆さん日本の村はどうなってると思います。本書は福島大学荒木田准教授が村の日本近代史について描いています

村の近代化構想

戦国時代、分権的、土地の自衛集団、近代化とは「分割」「囲い込み」。「天下統一」は「平和を基調とした安定的な支配」、秀吉は、領地権と所有権を分離、領主に「石高」が与えられる、百姓には所有権を与える。太閤検地の道具は曲尺の六尺三寸に統一、一反は三百歩、枡は京枡、検地帳の記載基準を定め「石高」表示される、石高は米生産高。村切りは境界を定め、村落の範囲確定、耕地を集落周辺に集中、村請負は貢租を請ける体制。「身分的規制としての刀狩」は武士・町人・百姓ごとに人々を編成、人と土地の統一的支配を目指す、領主・家臣団の土地切り離しは兵力規制、支配の永続化が構想された

村の変貌と多様化

徳川幕府支配下の日本は、300の領邦国家に近いものになり、全国領主を石高官僚として処遇に失敗する。外様大名は領国的支配を続け在地性を強める、転封も行われなくなり、領地権は相続される。度量衡の混乱、藩札発行容認、関所での口銭徴収は権力の分散化進行、村も「独自ルール」。対外貿易は、長崎に窓口を限定したことで相対的に安定期。江戸は奉公人の斡旋する口入宿があり、奉公先で身分が決まる、武士の賃貸収入依存、深刻だったのは百姓地の蚕食、「御公儀様」から拝領した土地も貸借という名目で事実上の売買、町立と呼ばれる個所は貢租負担条件に新町建設が認可されていた。百姓は専業が基本だが、作間稼、事実上の職業移動で「身分」という枠組みが実態に合わなくなる。検地帳は、「貢租負担と引き換えに百姓に土地所有権を認めた」と解すべき、土地所有は村を超えて可能、新田開発が発生、検地帳に「附」として付加・一定期間貢租免除、帳簿漏れの土地黙認。生産性上昇・税収一定は石高制の根幹を揺るがす。飛び地や相給(村を複数領主が領知)が増え、幕藩体制の村は「自然村」でなくなる、

村の復権構想とその挫折

版籍奉還は領知権の返還、町人と百姓の土地はそのまま、飛び地整理は難航。1871年の統一戸籍法は「居住地編製主義」に転換、町と村を統一的に扱っていく課題に向き合う。廃藩置県は全国支配の一元化と府県統合、石高制と村請制を利用貢租徴収、地方官は中央政府により任命、国の出先機関、民生支配は引き継ぎ、軍事面は解体・常備軍新設。新貨条例、一両=一円とする、村役人廃止・戸長と副戸長に変更したが、全国的には村の規模は地域によりまちまちで、役人の選出方法も含め村の性格も一様ではなかった。戸籍法に基づき町や村を連合させて「区」を設け、郷社や小学校設置が進められていることから「区」を利用したのは東京・埼玉・足柄・高知村は近代行政の受け皿として作られず、「区」の方が好都合だった。こうして「土地を通じた人の捕捉」は村に近づくほど現実との乖離が大きく、郡の段階で止まった、

土地・人・民富の囲い込みと新たな村の誕生

政府は土地永代売買を許し、土地所有を認める、幕藩体制以来の所有権の追認。その前に東京府下市街地に地券発行、地租上納を命じた、郡村の耕作地についても民有地すべてに地券発行方針を示したが、発行の遅れ予想から既存の貢租を利用。地租改正は、地価の算出方法は、地租収納の目標額決定、これを県・郡・村・一筆ごとの土地に割り振り、地租率の逆数を乗じて決定、分賦額を配当したのは村、石高から反別(面積)に代わる。土地の実態調査で度量衡の再統一、改租による反別大幅増となったが、インフレが事実上の減税となり、不満を抑えた。地租改正は、土地をあぶりだし、囲い込んだ、証明できなかったのは「官没」、払下げ、合併は、境界確認の打開策、県の指導。改正作業と同時並行して地籍編纂作業、戸長役場に「土地台帳」「更正図」設置、国土を一筆ごとの土地に切り分ける、これが地租の課税台帳・付属地図とされ、登記法制定、登記事務は治安裁判所が行う。市町村の存立要件は①殭土②人民③市町村制理由とされ、課題の一括解決として町村大合併により新たな村が作られ、住民は市町村制で定義された、村は一個の人格として、村の意思は国家の意思と権限委譲が正当化、「自治」は制限去れたもの

まとめ

織豊政権期、天下統一は領知権と所有権の分離、太閤検地による石高制、村は貢納と引き換えに所有権を持つ。幕藩体制期、石高官僚制に失敗、分権化、村は自然村でなくなる。明治初期、戸籍法による居住地編製主義、廃藩置県で府県統合を狙うが挫折、村は石高と貢租請負。明治中期、地券発行は困難を極める、石高制から土地実態把握、改租による反別大増加と囲い込み、市町村の大合併、村の概念転換