皆さん萬翠荘てどんな所だと思います。本書は片山雅仁が萬翠荘について描いたものです
松山藩と久松系松平氏
関ヶ原合戦後、加藤嘉明が松山に城を築く、蒲生忠知を経て松平定行(久松系、元は菅原氏)入封、幕末、長州征討失敗、鳥羽伏見の戦いで不参加、朝敵とされ、土佐藩による占領統治、明治4年廃藩置県、松平定昭病死・養子として久松定謨。フランスサン・シール陸軍士官学校に留学、随行員の加藤拓川はパリ公使館勤務となり、後任随行員に秋山好古、日露戦争で秋山好古騎兵旅団率い満州、久松定謨は諜報活動、加藤拓川はベルギー公使、
殿下の御宿泊にふさわしいものに
久松家の本邸は東京にあったが、定謨は松山に移す構想、設計は木子七郎(東大建築科卒・大林組時代に新田長次郎の新田靴帯本社工場設計)陸軍特別大演習後、摂政宮の松山宿泊に充てる目的をもって推進、総工費30万円、城山は陸軍・道後は愛媛の管理にあったが、城山登城の要望あり、払下げ受け市民公園として整備、萬翠荘が花を添えた
ルイ十六世式金ピカとは
設計を引き受けた木子七郎は海外視察、人間生活の根本は、気分、木造が鉄筋コンクリートに変わっても保ちうると捉えた。大正11年11月分完成、本館は建築面積417.34㎡、地上3階、1部地下、正面玄関ポーチとその上の中央バルコニーが突出、北東背面に付属屋「フランス・ルネサンス様式」で、愛媛で最初の鉄筋コンクリート造、外装最下段は御影石、壁面はタイル貼、玄関ポーチ、バルコニー、1・2階で境界の蛇腹、窓枠には精巧な装飾、屋根は寄棟屋根で「マンサード屋根」、内装は相原雲楽が請負う、正面の大階段の欄干はチーク材、各部屋暖炉、ステンドグラスは木内真太郎の作、庭園は高低差を利用、洋風と和風を組み合わせる、ルイ16世式金ぴかは、加藤拓川が木子七郎に宛てた書簡「摂政宮行啓に間に合う旨大安心の次の文言である」
摂政宮の松山行啓
大正11年11月分22日演習が終わり萬翠荘へ向かう、翌23日終日萬翠荘、24日松山高等学校、愛媛師範学校、歩兵22連隊本部を訪れ、25日宇和島中学校、武徳館、宇和島城訪問、高知へ、謁見の間に八木彩雲2枚の壁画、松山南方の三坂峠から松山平野と神奈川湾の風景がある、久松定謨が摂政宮に示しながら松山を語る、
愛松亭と愚陀仏庵
「愛松亭」は夏目漱石が寓居、その後「愚陀仏庵」に移る、ここに正岡子規転がり込む、久松家は奨学組織「常磐会」をつくり奨学資金を給付、現在も常磐同郷会として東京東久留米に「常盤学舎」運営している、子規は給付生であり、最高学府で勉学が続けられた、その後、新聞「日本」の文芸担当記者となり、日清戦争で従軍記者、森鴎外、中村不折、河東可全と交わり、帰国、愚陀仏庵で漱石は「松山じゅうの俳句をやる門下生が集まってくる、やむを得ず俳句を作った」とある、漱石ロンドン留学中、子規死去、
ノブレス・オブリージュ
日清戦争後、久松定謨・所属近衛師団が台湾派遣、現地で北白川宮マラリヤで死去、遺体搬送中、久松定謨感染、奇跡的に助かる話がある。定謨は陸軍を退き、「久松家顧耕会」をつくり、農業指導、松山郊外東野「竹の茶屋」を開墾、定謨は子供の躾には厳しかった、外国語は重要、軍人になれと言っていた、加藤拓川は食道がんを抱えながら松山市長、秋山好古は北予中学校校長、新田長次郎は和歌山県海南市に「温山荘園」造営、木子七郎設計
いま、新たなる文化創造の拠点として
北白川宮成久王妃・房子内親王,閑院宮載仁親王、イ・ウンが訪れている、戦後はGHQに接収、解除後は松山商工会議所とした使われ、昭和60年萬翠荘は愛媛県指定文化財、平成23年には国の重要文化財指定を受けた、
まとめ
松山藩は久松系松平氏藩主、廃藩置県で養子の定謨フランス留学、随行員は加藤から秋山、日露戦争後、本邸を松山に移す、設計は木子七郎、摂政宮行啓の宿泊先に使用、フランス・ルネサンス様式、漱石ゆかりの愛松亭と愚陀仏庵、子規たち交流、晩年の郷里への貢献が語られる