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佐藤洋一郎 米の日本史を読む 

皆さんご飯食べてますか。本書は京都府立大学佐藤教授が米の日本史について描いたものです

稲作がやってきた

イネ来りて根を下ろす―日本で水田稲作が最初に渡来したのは北部九州で「屯田」で定着、稲の開花日の多様性を見ると朝鮮半島経由で渡来、水田から休耕のあとがある、畠から陸苗代が見つかり田植えをしたと確信、やってきたイネの系譜ーイネは異なる地域から独立に持ち込まれた、人々はどれほど米を食べたかー煮炊き用鍋からモチ米の存在、力を出せるのは米、主力はジャポニカ米、長江から伝わる熱帯ジャポニカを含む、道具から見た米食文化ー臼と杵で籾を搗いた「搗き米」食べた、

水田、国家経営される

稲作、列島に広がるー国の統一の過程は、水田稲作と米食への収斂の過程であった、作物の伝播には人間の意図がある「日本武尊の東征」、北進を阻んだのが開花日、東北は早生である、稲作の盛衰をもたらしたものー「ウンカ」の害・「兵站」、稲作の経営学ー古墳造営と水田開発は車の両輪、遊牧文化と農耕文化は異質、稲作の選択、水田と溜池など灌漑施設の拡大は水田漁労システムを促した、モチ米はあったかーモチ米は古墳時代以降、ウルチ米優勢なことからハレの食材

米作り民間経営である

民営化された稲作ー班田収授の仕組みを作ったが、土地は限られ暮らしは楽にならない、三世一身の法は水田開発を民間委託したもので、律令制変更、荘園が造られた、集落ができ「里の景観」、既存水田は劣化がすすんで休耕、雑草とらないと水田放棄、二毛作の登場、麦の収穫が食料不足に対応できた、問題は肥料不足と夏作のおくれであった。インディカ渡来ー9世紀頃大唐米広まる、食べ方は糧飯、赤米は8世紀あった、軍事物資としての米ー武士は平時は田舎、農閑期に戦い、略奪「刈田」、兵農分離で遠征可能となった、米の生産に携わったのは農村だったが、価値を高めたのは都市の人や旅人、多くの品種が生まれた、次々に生まれる米料理ー玄米を作って白米にするのは、唐臼という籾摺う専用臼ができてから。寿司の起源は水田稲作にあり、渡来食品。葉で巻く米料理は柏餅、桜餅、鯖寿司、粽、行事食40の内米粉を使ったのは晩春から夏にかけてのもの。酒は大掛かりな生産体制により、恒常的に作られ飲まれた、米食の思想と信仰ー肉食禁止、日本人は寺の檀家となることが義務づけられ、「精進料理」に接するようになった、「あえのこと」は家庭で執り行われるが、出される料理は豪華、冬のハレの行事、五節供の祝いは江戸時代から、人目の節供の七草がゆ、桃の節供の草餅や菱餅と白酒、端午の節供の柏餅と粽、菖蒲酒、七夕の節供の甘酒、重陽の節供の団子や菊酒、鴨長明「方丈記」は災害と飢饉、人生観、この時代狩猟採集文化の衰退、

米、貨幣になる

豊葦原瑞穂の国はどう作られたかー「太閤検地」は文明システムの構築、江戸幕府の石高制は、藩の経済力を示す数値、水田になる前、新潟平野は低湿地帯、八郎潟は潟湖、岡山平野は海が入り込んでいた、「多すぎる水」に喘ぎ続けた土地、日本にも「浮稲」があった、大阪平野も2000年前浅い湾があり大和川が流れ、度々氾濫、大和川を堺に変更、穀倉地帯になった、新潟も信濃川の氾濫、大河津分水の開設により穀倉地帯にした、少なすぎる水ー三重県いなべ市、村共同の灌漑用水でもめ事となり、「刻限日影石」設置、時間による水の分配、水源確保に静岡県深良新田の用水、大阪府の溜池狭山湖、稲作の抵抗勢力ー害虫「ウンカ」、「いもち病」、「米作りは国作り」の思想ー水田の文化は泥と石の文化の雑種文化、日本の水運の根幹を作ったのが米、水田の役割は水の涵養、森の涵養、沿岸漁業の涵養にあり、例として神奈川県の魚つき林、品種の概念ー会津農書には里田と山田にあう品種が、早生、中生、晩生ごと、ウルチとモチの区別ある、イネの背丈を低くする方法は窒素肥料を減らすこと、幕末明治西日本で「大粒」品種はいくつも誕生「都」「白玉「雄町」酒米として「奈良穂」「山田穂」米食文化の諸相ー米食の出発点は江戸・大坂・京、白米登場、食の東西を見ると、餅やつゆのほか、「東の蕎麦・西のうどん」「ウナギの背開きと腹開き」「東の白ネギと西の葉ネギ」、京阪は昼、江戸は朝に炊く、冷めても食えるモチ米とウルチ米の飯、餅の製法は白玉粉に水、砂糖などを加えて混ぜ電子レンジ加熱の方法がとられている

米、みたび軍事物資になる

富国とは米を作ることー明治維新後日本は慢性的な米不足、愛知県の明治用水は矢作川から水をとり尾張丘陵を潤した。化学肥料は急速に普及したが持続可能な稲作に負の影響を与えた。酒田の山居倉庫は、土間に塩、屋根を高くし二重構造にして暖かい空気を上に集める工夫がされた、夏には欅の木で室温上昇を防ぎ保存された。品種は、中村直三が比較試験し、第2回内国勧業博覧会の出品は742種の及び、全国に広まる、富国強兵を引き受けたのが丸尾重次郎「器量能」と「愛国」静岡県伊豆栽培の「身上早生」の種子が俳句仲間のネットワークで仙台に伝わったのを起源、北日本の米ー山形県の阿部亀治「亀ノ尾」品種、庄内では本間家や酒田藩主が基盤作りをしている、北海道は家畜の飼育とジャガイモ栽培を想定していたが、屯田で入った人々は稲作悲願、しかし試みは失敗、開拓使は稲作推進、直播はじめ幾多の栽培方法、品種改良がなければ稲作は実を結ばなかっただろう、米への渇望ー陸軍に入隊すれば白い飯が食える、しかし日露戦争の苦戦は白米にあり、新たな品種を生み出すことが要請された、この時代の富国は国全体の生産性を上げる、日本という国としての品質をそろえることだった、京都府の山本新次郎「旭」の登場、1918年米騒動、洋食の誕生と普及がある、

米と稲作、行き場をなくす

新しい時代の到来ー「米作日本一表彰事業」で最高一反当たり1千トンを超え、米不足解消、米余り常態化、生産性向上の要因に「農業構造改善事業」がある、区画整理して大型機械が入れる様にした在来種は小さな区画もろとも消えてゆく、「パンとミルク」「洋食の普及」が米の消費を減退させる、神を失い、神饌もなくな注目をった、稲作文化と米食文化のいまー棚田が少しずつ注目を集めるようになった、美しいと感じるのは「努力の結晶」が透けて見えるため、田んぼの景観は「となりのトトロ」「田んぼアート」を生み出した、米を食べる人が「品種」というものに目覚めた、料理の革命自動炊飯器の登場、

未来へ「米と魚」への回帰を

日本は「社会の縮小」状態にある、地方の衰退が甚だしい、今後100年最低限必要な食料確保するためには「米と魚」を中心とした食生活の復権が鍵を握っている、

まとめ

稲作はやってきた、国家管理から民営化、貨幣と兵站と食料になりましたが、米と魚と神の復権を図るべきです、