皆さん横浜中華街へ行ったことありますか。本書は立正大学山下教授が横浜中華街について描いたものです
もとは入江だった横浜中華街
横浜中華街が形成されたのは、入江の開発で出来た横浜新田、ここに欧米資本が買弁として連れてきた中国人が住みつき、南京町を形成。町は髪は辮髪、女性は纏足、アヘンをすい、関帝誕と春節を祝ていた。華僑の妾は南京らしゃめんと呼ばた、会芳楼設立
外国人居留地の廃止後の南京町
1899年外国人居留地の廃止、町は雑居が進み、第二の故郷化、中国料理店は町の外へ進出。関東大震災は町を灰燼に帰し、日中戦争で非国民扱い、横浜大空襲で中華街は壊滅的打撃を受けた。
伝統的華僑社会の特色
華僑の構成は広東人が半分で職業は料理人、三江人(浙江省・江蘇省・江南省)の職業は料理人・洋服仕立て・理髪店・ピアノ製造業福清人の職業は呉服・サンゴ/鼈甲などの行商。地縁的結びつきを求めて中華会館と同胞団体として三江公所・親仁会設立。卓越している職業は「三把刀業」菜刀・剪刀・剃刀。教育機関として大同学校華僑学校・中華学校、伝統的な生活様式は畳・テーブル・ベット
ヤミ市、外人バー街そして観光地
南京町は接収を免れ,ヤミ市誕生、外人バー街の性格をもつ。中華の象徴・牌楼建設され、氷川丸は山下公園に係留・観光名所となりました
華僑社会の分裂
中華人民共和国は華僑に祖国建設を呼びかけたが、大陸派と台湾派に分裂、中国中華学校に影響、追い出された大陸派は寺子屋教育のち横浜中華学校設立したが、台湾派華僑総会襲撃事件が起こる
人気観光地へ急成長
1964年石川町駅新設、徒歩5分で中華街、1970年代元町商店街は流行の最先端を走り、買い物は元町、食事は中華街に流れた。日中国交正常化は中国ブームとパンダブームを起こし、さらにディスカバージャパンとグルメブームで観光客急増、バブル期は店舗の新改築のラッシュとなりました
横浜中華街の再編成
天安門事件で関帝廟の火災と再建に、大陸派と台湾派和解、国慶節と双十節のポスター並ぶ、媽祖廟建設でマンション買戻す。1971年横浜中華街発展会協同組合結成、バブル後目立ったのが福清出身の新華僑・福建料理を持ち込みます
多様化と急変
新華僑は閉店に追い込まれた店舗を借り、中華料理店開業、老華僑は新華僑に店を貸しテナント収入、エスニック料理「チャイハネ」登場、占いの店増加しています
日本の中の中華料理街
三大中華街、横浜・神戸・長崎。日本初のニューチャイナタウン池袋、郊外型西川口
世界の中の横浜中華街
サンフランシスコ・起源はゴールドラッシュ、牌楼のあるチャイナタウンはサンフランシスコ・メルボルン・ロンドン・リバプール 横浜中華街をモデルにした仁川があります
まとめ
買弁として横浜に上陸した中国人、外国人居留地の廃止で雑居、第二の故郷・料理人として自立、新華僑は料理を作り、老華僑は店を貸す時代です