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宗教

仏師から見た日本仏像史 江里康慧 書評

本書は仏教伝来から如何にして仏像を造り上げたか、頂点といえる定朝に至る推移と鎌倉期の運慶快慶に至る流れを訪ねたもの、著者は日吉ヶ丘高等学校卒業、仏師松久朋琳師・宗琳師に入門、父宗平とともに仏像制作に専念、

日本の仏教黎明期ー飛鳥・白鳳期

飛鳥時代―国家の始動、仏教伝来、仏教は文化とともに伝わるー法興寺造営、止利仏師「丈六釈迦如来坐像」完成、樟による飛鳥仏、白鳳時代ー仏教文化が花開くー法隆寺「阿弥陀三尊像伝橘夫人念持仏」

国家仏教として

藤原京から平城京遷都、塑像と乾漆像ー奈良時代を通じての中心を占めていく・東大寺法華堂「不空羂索観音像」、密教の興りー東大寺大仏、鑑真和上の来朝ー木彫像が復活、壇像-唐で珍重、法隆寺「九面観音菩薩立像」、聖武・光明崩御後、仏教は世俗化・やがて衰退、

仏教文化の絢爛ー平安期

官営造仏所から私設の工房へー最澄と空海が精神軸、神護寺「薬師如来立像」、造仏所設置僧による仏像制作、東寺講堂「梵天・帝釈天像」、和様の興りー大陸風から和様、仏像は康尚から定朝、天皇の御願寺ー宇多天皇の仁和寺、醍醐天皇の醍醐寺「薬師如来坐像」、仁和寺の近くに四つの御願寺「四円寺」、亀裂を防ぐため一本造りから割矧造ー、そして寄木造りへ

藤原氏の栄華ー摂関期

末法の世を迎えてー浄土教思想、藤原道長と仏師康尚ー康尚は造仏所で造仏、やがて工房を構える、活動期間は源融の造仏から藤原道長の無量樹院まで、法性寺「不動明王坐像」、無量寿院「九体阿弥陀如来坐像」から法成寺へ、仏師・定朝ー無量樹院で仏師としてデビュー、金堂の造仏で法橋位を受ける、無量寿院を法成寺と改名、頼通の命により平等院鳳凰堂「阿弥陀如来坐像」、邦恒堂「丈六阿弥陀如来坐像」を造立、七條仏所ー定朝の工房兼住居

作善の仏像ー院政期

積善の造立ー末法の影響で造仏こそ積善と考え、法勝寺の建立ー白河天皇、法勝寺と合わせて六勝寺(御願寺)ー①尊勝寺②最勝寺③円勝寺④成勝寺⑤延勝寺、白河南殿・北殿⁻白川法皇創建、鳥羽離宮ー白河上皇から鳥羽上皇へ引継ぎ、証金剛院ー白河上皇、成菩堤院ー鳥羽上皇、勝光明院ー鳥羽上皇、安楽寿院「阿弥陀如来坐像」ー鳥羽上皇、北向山不動院「不動明王半跏像」ー鳥羽上皇、金剛心院ー鳥羽上皇、阿弥陀堂ー現存は平等院・法界寺・三千院・浄瑠璃寺、五大堂ー空海が東寺講堂に顕現させた五大明王を本尊とした仏堂、四種三昧と宝冠阿弥陀如来像ー三昧を常座三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種に分けた修行、円仁が伝えた常行三昧の本尊は宝冠阿弥陀如来で四躯の四親近菩薩が囲む五尊像ー輪王寺、武士の台頭、

慶派の興隆ー鎌倉期

天平時代への回帰ー奈良仏師の先導者・康慶とその弟子(慶派)長谷寺「阿弥陀如来坐像」生身思想ー信濃では生身の如来として一光三尊阿弥陀如来を安置、寺号を「善光寺」と称し信仰されるようになった、東大寺大仏殿の再建、東大寺南大門仁王像ー運慶と快慶、興福寺北円堂ー運慶工房と慶派が総力結集して完成、興福寺北円堂「弥勒如来像」

仏師の冬、そして現代へ

大寺院から家庭の仏間へー小さな仏像で工房経営は安定、仏師・史上最大の危機ー太平洋戦争

まとめ

戦中に仏師の家に生を受け、戦後の混乱期に幼少年期を過ごし、目に映るのは仏像と仏師の状況は惨めで、定朝や運慶快慶に遥か足元に及ばないが、少しでも往古の仏師に近ずくことを目標に、鑿を握っている、仏師から見た日本仏像史