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中国

李鴻章 岡本隆司 書評

下関会議で狙撃され、李鴻章は日清戦争を起こした人物、大物政治家であり、彼の生涯はほぼ19世紀の中国歴史と重なり、時代と社会を映し出すことを課題に追ってみようとしたものです、

青年時代

1生い立ちー安徽省の合肥生まれ、1840年学校入試合格、1844年郷試合格、曾国藩に師事、1847年進士、

2黄昏ー明清交代で華夷一体、多種族共存、乾隆の全盛、海外貿易で人口増加、時代の転換白蓮教徒の乱、

動乱のなかで

1太平天国ーアヘン戦争敗北と太平天国の乱、南京陥落、内訌と曾国藩の湘軍苦闘の末九江奪取、

2幕僚の日々ー安徽省の防戦で周天爵の幕友となり、合肥の戦いで陥落し曾国藩に身を寄せ幕友、

3転機ー蘇州の陥落で江南デルタ太平軍、湘軍が安慶陥落、上海の危機で上海紳士グループが曾国藩に「安慶乞師」で李鴻章抜擢、

浮上

1淮軍の興起ー李鴻章は合肥の「団練」を組み合わせ「淮軍」組織、上海死守、蘇州開城、常州陥落、上海の資金と常勝軍を管理下に置く、「洋務」始動、

2督墲重権ー太平天国滅亡、西太后による垂簾聴政で地方大官の裁量拡大「督撫重権」、湘軍潰えて淮軍、残ったのは上海の財力、李鴻章は江南デルタの掌握と洋務、捻軍平定、督撫の第一人者となった

3「協力」の時代とその終焉ー同冶中興で天津条約・北京協定、総理衙門設立、「協力政策」、教案(教徒や教会襲撃事件)発生、「天津教案」は外交問題に発展、李鴻章は直隷総督、21名を死刑、府県知事流罪、弔慰金28万両支払い決着、北洋大臣兼務、

明治日本

1清朝と日本ー日本は清朝と国交を開くにあたり使節団派遣、総理衙門の成林と李鴻章は面会意見具申、日本と条約締結の必要性を総理衙門に説き伏せた、明治政府は条約改正が第一で、清朝と西洋的国際関係を結ぶのが有利とみた、清朝は日本の存在をあらためて認識し、知ろうとした、李鴻章は潜在的な軍事的脅威と位置づけた、

2日清修好条規ー李鴻章は日本を篭絡するため初の外交的デビュー、「所属邦土」規定が一大係争点となる、

3台湾出兵から琉球処分ー台湾漂着の琉球人殺害で日本は出兵し本拠地攻略、清国は出兵の報酬として50万両を支払う、台湾の地位と出兵の是非、国際法と日清修好条規との対立、日朝交渉でも日本は武力示威、江華島事件の後、江華条約結ばれ、清朝はあえて干渉しない、清国に琉球人を「日本国属民」と認めさせ冊封体制廃止、琉球を沖縄県に編入、

「東洋のビスマルク」

1「海防」と「寒防」ー李鴻章は自らの地盤に必ず兵器工場を設け、駐屯する淮軍に補給できるようにはかった、新彊は大反乱勃発、ロシアの中央アジア征服、反乱の鎮圧は左宗棠と楚軍、新彊問題で左宗棠と李鴻章が「海防」「塞防」論争、新彊征服、ペテルブルグ条約で中露国境確定、

2朝鮮ー属国自主の関係維持を図りたい李鴻章は、朝鮮に西洋列強と条約を結ばせることで日本は手出しできなくする、アメリカとの条約交渉で「属国」を実体化、「自主」を名目化壬午政変で日本公使館襲撃され、日清両国は軍隊派遣、済物浦条約で旧政権復活、甲申政変袁世凱介入で天津条約、両国軍隊撤退、

3ベトナムーフランスは軍事行動、阮朝とサイゴン条約で完全独立国、清軍北ベトナム進出 清仏交渉で3か条の覚書、フエ条約でフランスは「保護国」化、清仏戦争で天津条約「保護国」と「属国」の規定、

4「洋務 」の運命ー対外交渉において李鴻章が関わっていないものはない、外国側の信頼感と最強の軍事力、外務省の欠如、「属国」維持の方針、軍備の強化・制度の改革は進捗せず、

落日

1日清戦争ー李鴻章は清朝きっての知日派、淮軍は17万、北洋艦隊編成、朝鮮で東学党の乱で日清出兵、宣戦布告、陸奥外交と光緒帝登場で破局、

2親露への旋回ー下関条約調印、李鴻章はロシアを引き込み三国干渉、北洋大臣と直隷総督解任後、ロシアのニコライ2世戴冠式に参列、露清密約、日本敵視が失策、帰国後は総理衙門大臣、中国の分割「爪分」の形成、変法の政策と西太吾のクーデター、

3最後の舞台ー清軍と義和団は外国公使館攻撃、列強は8ヶ国で連合軍結成、総理衙門大臣を罷免された李鴻章はその後両行総督に、元幕僚の盛宣懐が、督撫が外国と和解「東南互保」を画策、李鴻章は歩調を合わせる、連合軍の攻撃を食い止めるため李鴻章に全権大臣の資格を与え講話交渉、11ヶ国の間で北京議定書、天文学的賠償金を支払う、ロシアの撤兵が一大問題とかし日露戦争をひきおこす、

まとめ

清代と清末の中国、李鴻章の時代の中国をみなくては、現代中国もわかりません、中国理解の足掛かりとしてお役に立てれば、望外の喜びです、青年時代、動乱のなかで、浮上、明治日本、東洋のビスマルク、落日で構成